レポート

パート1:市民生活と環境問題の全体像(そもそも、環境問題とは何か? )

地球環境問題の科学と政治

7月20日(火)

米本 昌平 氏東京大学先端科学技術研究センター 特任教授

外交と環境がリンクする時代

米本 昌平 氏  地球環境問題が国際政治における交渉事の大きなきっかけになったのは20年前の冷戦終結からです。それ以前は、環境問題とは内政の失敗であり、外交の交渉対象にはしないという国際政治上の了解がありました。20年前に突如として地球温暖化問題が外交課題として取り上げられたのは、温暖化の危険性が高まったからではなく、核戦争の危険が小さくなり、次なる共通の脅威として環境問題の順序が繰り上がったためです。同時に、地球科学などの分野に携わる科学者たちは、これまでのように自分の研究に没頭するだけでなく、国際政治の枠組に関わる立場に立たされるようになりました。このように地球環境問題は、自然科学研究と国際政治が融合しているという特徴を持っており、これらの科学研究は強い圧力を受けるようになります。真理の追究という科学本来の目的に加えて、国際正義と国益調整の両方をめざすような研究プログラムを扱わなければならなくなったのです。

ヨーロッパにおける「環境と外交」

米本 昌平 氏 地球科学と国際政治の融合の先鞭となったのは、ヨーロッパが酸性雨問題の対策を講じた長距離越境大気汚染条約です。1940年代に中東で原油が発見され、その後採掘投資が進み、安く利用できるようになり、60年代の先進国の高度成長を後押ししました。この時代、排気ガスは大気に薄めて遠くに飛ばしてしまえば大丈夫だと考えられていました。しかしその結果、高度成長が始まると北欧の自然が壊滅的な被害を受けました。そこで、これを国際交渉の議題にしようとスウェーデン政府の呼びかけにより、1972年に国連人間環境会議が開かれたのです。これによってOECD内で酸性雨の研究がスタートしました。1979年に長距離越境大気汚染条約が署名され、世界で唯一東西をまたいで科学データを共有する条約が成立しました。その後、条約内条約として、SOx、NOx削減を求める議定書が80年代に署名されました。さらに89年のベルリンの壁崩壊と冷戦終結により、温暖化問題へのシフトが加速し、これ以降、一気に科学研究と外交交渉がリンクして動き出すようになったのです。

アジアにおける「環境と外交」構築のために

米本 昌平 氏 東アジアでの状況に目を向けると、ヨーロッパとはまた大きく事情が異なります。先進国で高い省エネ技術を持つ日本は風下の海の中にポツンと存在し、今や最大のCO2排出国の中国が海を隔てて向かい合っています。その他にも様々な価値観を持つ発展途上国が並存しています。こうなると単なる環境協力というアイデアだけでなく、もっと政治的にハイレベルの知恵を出し合わなければ実質的には何も生み出すことができないでしょう。例えば、環境データの即時公開・無条件使用は先進国では当たり前のことですが、環境データは国家主権の及ぶものであり、勝手に使用させない、場合によっては一件いくらで売るという国は日本の周りにいくらでもあります。しかし、「だから途上国は駄目だ」と日本の感覚で発言するのでは、すでに国際感覚を失っていると言わざるを得ません。ヨーロッパの事例をアジアに当てはめて考えることが、もはや適切ではないということを念頭に置かなければなりません。そして、環境協力・環境研究が新しい国際秩序を作り出し、国際緊張緩和へと導きます。米本 昌平 氏日本がアジア環境外交をする上で配慮すべきポイントとして、(1)先進国的価値感を相手国に押し付けるようなパターナリスティックな態度をとらない (2)国際公共財としての科学研究活動を押し進め、その運用を日本人が独占しない (3)内政干渉を絶対的に回避すると同時に、科学の中立性を堅持する (4)日本が植民地支配をしていたなどの東アジアの歴史に関する認識を保持する (5)広義の安全保障の構築であるという意識を持つ 以上の点が挙げられます。それだけアジアの中で日本が突出した先進国であり、周囲は途上国であるという認識が重要なのです。