レポート 2012年9月18日(火)

水俣病事件の教訓は生かされたのか?

〜福島原発事故の諸問題を環境倫理の視点から解きあかす〜

福島原発事故に起因した災害の問題は水俣病事件と比較されることも多いです。「環境正義」、「被害」、「予防原則」、「立証責任」、「補償」という視点から解きあかします。そこから「環境とどうかかわるか」という本質的な問題が浮かび上がってきます。また、「水俣」では経験しなかった「放射能汚染」の問題もあります。子どもたちに対してどのような責任を取るべきか(世代間倫理)、大地に根ざして生きることは可能なのか(大地の倫理)、「除染」と「避難」の問題が渦巻いている中で、問題を捉える視座を提示します。

鬼頭 秀一 氏
東京大学 新領域創成科学研究科 教授

 

環境正義〜リスクのある場所と恩恵のある場所

チッソは日本の高度経済成長を塩化ビニール製造で支え、その当時、誰もが就職したい人気企業でした。そのチッソが引き起こした水俣病と、日本経済を電気で支えてきた東京電力が引き起こした今回の福島原発事故。そこには、共通して浮かび上がってくる数多くの問題点が存在しています。

その一つは「環境正義」の問題です。言い換えるならば、それは「リスク分配の不公正さ」です。

全てのものには何らかのリスクがあります。それは、原子力発電所にだけあって再生可能エネルギーにないわけではありません。その意味では、決して今回のテーマだけに留まる話ではないのですが、例えば、水俣病や原発事故に関して言えば、それぞれのリスクが、立地される地域にのみ集中し、その一方で、塩化ビニールや電気といった恩恵をより多く受けるのは、消費者が集中する大都市であるという不公正さを私達はどう解決しなければいけないのでしょうか。この問題提起は、元々は82年、アメリカ・ノースカロライナでのPCB廃棄問題を端緒にアメリカ国内で環境正義運動として広がったものですが、日本の水俣病や原子力施設立地を巡る問題と相似の、現代において大変重要な問題です。大量生産・大量消費を前提とする社会が、効率性を追求する結果、必然的に引き起こされてしまう不公正でもあるのです。

被害の本質〜お金に換算できない豊かさ

次に、こうしたリスクが集中しがちな、自然の近くで暮らしている人々の生活について考えてみましょう。誤解を恐れずに言うならば、日本には年収150〜200万円で生きていける地方都市がたくさんあります。なぜこのようなことが可能なのかというと、そこには非貨幣的経済が浸透しているからです。つまり、野菜は自分達で作る、近隣の人と交換し合う、山に行って山菜やきのこ採りをするなどのことで、豊かな生活が成り立っているのです。このような、地域コミュニティにおける贈与・相互扶助・もてなしといったものは、それが破壊された時、経済的補償の対象には極めてなりにくいものです。また同時に、この非貨幣的経済を支えている自然と人間の関係性が事故によって破壊され、地域コミュニティの関係性が避難などによって分断されると、その地域の豊かさは成立しなくなってしまいますが、その上さらに、それらの地域に都市型の復興計画が持ち込まれた場合、その地域は大都市と同じ収入を得られない限り疲弊してしまいます。被害を受けた地域にとっての本当の幸せが何なのかを地域の視点で考えることは、とても重要なことです。

なぜ社会は加害者寄りになっていくのか

不利な立場に置かれがちな被害者にとって、これとは別に深刻な問題が、例えば認定審査会など中立的な立場に立つべき人々が、結果として加害者寄りになってしまう傾向です。88年に開かれた水俣病国際フォーラムでの半谷高久氏の問題提起には、「公害現象の因果関係の解析の研究に、自然科学者として、いわゆる自然科学的証明に忠実であろうとすればするほど、問題の解決を遅らせる危険性を持つ」と記されています。つまり、科学者は科学的にはっきり解明されたことでないと明言できない性質がある一方で、被害が現実に広がっている場合、科学者達はそのギャップを飛び越えることが極めて苦手で、それが結果的に被害者の不利益に繋がってしまうのです。

被害者は被害全体を訴えようとしても、加害者は被害を部分的にしか捉えようとしません。例えば水俣病の場合、被害者にとっての被害は、単に水俣病になったということに留まるものではありません。水銀中毒によって肉体的に辛いだけでなく、精神的に憂鬱になり、家族関係がギクシャクし、地域から差別を受けて孤立するというように、人間の存在全体の中に被害があるのです。ところが、そこを見るのは科学ではないと多くの科学者達は考えます。加害者は、特定の健康被害、とりわけ狭い意味での医学・生理学的な領域に限定した被害観を持ち、第三者は、客観性、平等性、中立性を指向する余り、特定の狭い領域の健康被害に限定した被害観を持つ傾向があります。環境の問題とは、そこで暮らす人々の生活全体の問題として起きているのであって、それを学問分野別に切り刻んで、社会学的にはこうだとか、経済学的にはこうだとやっていては、環境問題としては捉えられないことになるのではないでしょうか。

また、政策論的な視点に立つ人々は、例えば、被害の総数がこれだけで、賠償金の総額がこれくらいになって…という具合に上から問題を捉えていくことに陥りがちです。それは国家として必要なことかもしれませんが、結果として、被害者を抑圧し、社会的不公正を引き起こしてしまうことになります。本当に地べたに這いつくばり、その問題に寄り添って物事を見ないと、正にそこに生きている人、被害を受けている人の問題の本質は決して見えてこないのです。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン