レポート

パート 3 「環境」の20年 〜リオ+20の節目を前に〜:「環境サミット」と言われるリオサミットが開催されて来年で早20年。節目の年となる2012年には同地で「Rio+20」が開催されます。これまでとこれからの問題解決の糸口を探ります。日程:10月18日(火)10月25日(火)11月8日(火) 11月8日(火)

環境ジャーナリストが見た20年

原 剛 氏早稲田環境塾塾長

石 弘之 氏東京農業大学教授

コーディネーター:岡島 成行 氏公益社団法人日本環境教育フォーラム理事長

環境分野のジャーナリストといえばこの人、と言われ長く活躍されている3名にお集まりいただき、ジャーナリズムの立場から環境の20年を振り返ります。国際交渉の動き、日本での政策の変化、企業やNPO・NGOや市民それぞれの行動などを、綿密に取材しそれを人々に伝えてきた経験から、環境分野の過去、現在、未来について対談いただきます。

岡島成行氏プレゼンテーション

新聞記者時代の経験から環境問題を見ると、現代は複雑怪奇に拡大したという印象を持っています。昔は、例えば公害問題の取材なら、患者・企業・官公庁を回れば良かったのですが、それが自然保護、地球環境、途上国問題というテーマに変化した現代は、地球規模の話題へと様変わりしました。我が国では高度成長の時代に、その影の部分として四大公害をはじめしとた公害問題が全国各地で深刻化。これを受けて、71年に環境庁が設立されます。80年代には、白神山地林道建設や白保飛行場建設など、列島改造と自然破壊の問題が各地で顕在化しました。そして、92年のリオサミットで日本企業が環境への意識を持ち始め、97年の京都会議で温室効果ガス削減の数値目標が設定されるに至りました。公害や自然保護の時代には、環境問題とは自然科学(技術)や社会科学(経済・法律)の問題でしたが、地球環境問題の出現によって、私たち人間の生き方の問題、つまり人文科学的な手法をも用いる必要が生じてきたのです。

原剛氏プレゼンテーション

私が環境問題に目を向けるようになった理由は、登山やダイビングという趣味を通して、各地の山や海が破壊されていく惨状を目にしたことからです。漁師が大金と引換えに漁業権を放棄し、その海が埋め立てられてコンビナートが建設されたり、林野庁が国立公園に観光道を通すという時代がありました。決定的に忘れ難いのは、70年6月、世界の学者を東京に集め、バスで公害の現場を回りながら大阪万博に行くというツアーに同乗した時、静岡の田子ノ浦に立ち寄った時のことです。そこは船が進めないほど海が汚染され、振返って見上げた富士山は、工場から立ち上る黒煙の中で見えるか見えないかという光景でした。日本人の精神性の原点である富士山をここまで崩し、我々の内面性はどこへ行ってしまったのかということを、この地で強く感じました。当時は、東京駅の丸の内口に立つと、目の前にあるはずのお濠が見えない、丸の内オフィス街では次のブロックが見えないというほど汚染されていました。しかし、振返ると、何の法律も無かったこの時代、官僚たちは企業を一軒一軒訪ねて協力と要請を繰り返す、企業はそれを社会への責任として受け止める意識がありました。それから数十年を経た今、果たして社会は進化したのでしょうか。私は、あの頃のような責任感が人々から薄らいでいると思えてなりません。

石弘之氏プレゼンテーション

この20年間を振返ると、環境問題の国際政治化、企業の環境シフト、情報量の飛躍的増大、途上地域の環境保全などが、大きな変化として挙げられます。一方、これからの社会を展望すると、劇的な変化がいくつも想定されます。まず、現在70億人にまで膨らんだ世界の人口が、2050年には93億人になると言われています。このため資源が枯渇し、限界環境に進出せざるを得なくなります。また、新興国の経済拡大が環境に影響を及ぼします。貿易自由化も環境に影響を与えます。さらに、寿命50年と言われるコンクリートで作られた様々なインフラが老朽化し、崩壊する可能性があります。現在の社会は、72年に出版された「成長の限界」という本にあるような鉱物資源の枯渇問題以上に、水・土壌・森林など、賢く管理すれば大丈夫だったはずのものに、むしろ問題が起きており、量にばかり気を取られているうちに、質が悪化してしまったというのが、私の率直な感想です。一つ大切なことは、環境を良くするも悪くするも政治の力が大きく物を言います。にもかかわらず、日本の政治はひどすぎます。しかし、私たちが選んだ政治家がそれをやっているのです。日本の政治を良くすることが、環境問題にとっても非常に重要であることを忘れないで下さい。

ディスカッション

(岡島)この20年間の自然保護活動を見てきて、どのようなことを感じていますか?

(原)自然保護が、我々ジャーナリストの取材対象になったのは、高度成長で貯めた富が公共事業につぎ込まれ、それによって凄まじい環境破壊が起こった頃からです。富士スバルラインや尾瀬の問題が代表的ですが、地域開発は、その地域の人々のメリットになるという掛け声の中で拡大していきました。それによって引き起こされる自然破壊について我々が取り上げると、「では、それは間違っていると、あなたは言い切れるのか?」と企業や行政から言われました。その時、「NO」と言ってくれたのが、自然保護に取り組むNGOの方々でした。新聞記者時代、私たちは、新聞社から常に客観報道のルールを求められてきましたが、例えば、尾瀬の問題を取り上げるとしたら、金銭に換算出来ない尾瀬の価値判断をしないことには、尾瀬の記事は書けないのです。つまり、提唱報道(アドボカシー)の原点がここにあり、そういう意味では、ジャーナリズムの報道手法に大きな変化をもたらしたのが自然保護だったのではないでしょうか。

(原)先日、昆虫マニアの集まりに行ったら、過去10年間に野山にいる全ての昆虫が1/10に減った、そして、その原因は作物への浸透性が高い新しい農薬のせいだろうという意見が述べられていました。世界中で今これを規制しようという話が出ているのですが、日本では報道すらされていません。こういったことを取り上げて行く上で、アドボカシーの意義というのは認める必要があるのではないでしょうか。自然保護とは、公共の利益と個人の利益の問題でもあるわけですが、例えば、人口70億人の時代に、私たちに子供を自由に生む権利はあるのか?一人っ子政策を行った中国は4億人の減少に貢献したと言われるけれど、これから迎える老人問題をどうするのか?日本で言えば、年金問題をどうするのか?という問題と同様の要素を含んでいます。このような個と全体の問題をどう考えるのかが、今後の課題だと思います。

(岡島)最近で言えば、原発の問題もそうですよね。そろそろ「誰かが何とかしてくれるだろう」という考え方を捨てて、個人個人が自覚を持ち、日本全体の舵を切らないといけない時代になってきたわけですが、これから先、私たちはどうしたらいいのでしょうか。

(石)今、原発の問題が取り沙汰されますが、世界で自動車事故による死亡者が年間120万人、障害を抱えてしまう人が500万人いるとWHOによって推定されています。一方、チェルノブイリの事故による犠牲者の最大推定値は、グリーンピースによると9万人、IAEAは4千人、国際癌学会は1万2千人と発表しています。この数字をどう考えるべきなのでしょう。私は、当初から原発反対論者ですが、この社会から原発を取り除くことは本当にできるのでしょうか。食品添加物の問題にしても、私たちは年間平均20kgの添加物を取りながら暮らしていますが、私たちの今の食生活は、冷蔵庫と添加物による保存体制の上に成立しているのです。つまり、これらの問題において我々は共犯者でもあるのです。環境問題には、これと同様のテーマが実にたくさんあります。現代社会の様々な仕組みから私たちが受けている安全性、便益性、経済性などを考えた時、これは本当に大きなテーマなのではないでしょうか。

(原)地震、津波、原発の取材を私もしてきましたが、その現場に立つと、二つの残った建物があります。ひとつは、山の中腹に立てられた神社、もうひとつは、里山に立てられたお寺です。二万数千人の人が亡くなった、その同胞として私たちは、なぜ不条理な死に方をしたのかについて、心の折り合いをつけなくてはならない。供養のために宗派を越えて被災地に集まった宗教者にインタビューをして得た言葉は、「これが地震列島の現実であり、この地域の漁師たちは、これが自然なんだと受け入れて、再び海に出て行こうとしている」というものでした。取材者として、日本人が拠って立つ文化の基礎をどう理解し、報道していくかを、自問する日々です。

(石)私は最近、環境史の研究に取り組んでいますが、歴史を遡って見えてくるものが確かにあるのです。今、バンコクの大洪水が話題になっていますが、こういった出来事は20〜30年に一度はタイで起きていることで、あの地域に進出する企業ならば、当然調べておかなければいけない事実なのです。古代ギリシア時代に地中海世界を支えていた有名な銀山があるのですが、銀の精錬工程で発生する有害な煙の対策として、人々は、当時としては破格の高さ50mの煙突を建てたそうです。これによって付近に住む人々は良かったかもしれませんが、逆に汚染の広域化が始まりました。これと類似の例を、私たちはいくつも発見することが出来ます。人間は、いつまでたっても同じ過ちを繰り返しているわけです。今、こうしたことを研究する環境歴史学の研究者がとても増えており、とても面白い本がたくさん出ているので、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン