レポート

パート 1 森と水 〜生命の源〜:「国際森林年」である今年、あらためて生命の源である森林の価値、森林と深い関係である水について考えます。日程:7月5日(火)7月12日(火)7月26日(火) 7月26日(火)

森と水〜いのちの神々〜

薗田 稔 氏秩父神社宮司 京都大学名誉教授

現代のわが国には、神道系・仏教系・キリスト教系・諸教系など多くの教団宗教とは別に有史以来の基層的な宗教文化が連綿と生き続けており、一口で「神仏」と言い慣らされてきた宗教習俗があります。それは、教団宗教のように教義と信仰の体系というよりも、むしろ神話と儀礼の体系をもって森と水の豊かな各地の宗教風土を構成し、そこに息づく「神仏」は文字通り「いのち」の霊性として人々の多様な宗教的要請に応えてきています。本講では、日本古来の森林風土を神仏の世界として崇めてきた各地の宗教風土を事例的に紹介しながら、自然環境を宗教文化とした伝統の現代的意義を考えます。

「生命」と「命」の違い

薗田 稔 氏日本語には「生命」という言い方、そして「命」という言い方があります。「生命」とは、例えば健康などを論じる時、それを一つの有機体、つまりモノとして捉える場合の言い方で、これは「心」を伴ってはいません。一方、心と共にある生命の問題、それが私達が使う「命」という言葉です。宗教が関わるのは、そういう「命」であって、医学が言うところの「生命」ではありません。近年は、どうも命を生命と捉える癖がついているようで、「個人個人の生命だから親とは関係がない」というような孤立した捉え方をする現代が、無縁社会を呼込んでいるのです。私達は、「繋がり」があってこその命だということを、もっと考えなければなりません。

ところで日本人は、この「命」の考え方と同じように、見えない物に対して畏敬の念を強く持ってきました。それが「大自然に神仏が宿る」という感覚で、近代になるまでは、これが当たり前とされてきました。実は、この「神仏」という異なる二つの宗教を一つにして考えるのは、日本人独特のことです。海外の宗教文化においては、このようにルーツの異なる宗教の神様、或いは仏様を、一つにして表現することはありません。

「命」の極地に辿り着いた日本人の感覚

薗田 稔 氏福島県西会津地方には「諸虫(しょちゅう)供養」という行事があります。これは、田畑の栽培のために仕方なく殺した虫を供養するというものです。また山形県米沢地方には、材木を伐り出した人々が木の霊を供養する「草木(そうぼく)供養」という風習もあります。これらはまさしく日本人ならではの考え方で、あらゆる生き物にもことごとく一生があり、成仏する存在であるということを示すものです。身近な類似の例として、鰻屋さんが鰻供養をしたり、シロアリ駆除業者がシロアリ供養をしたりもするそうですし、大学などの実験動物を扱う所でも、その供養が行われます。道具に対して供養をする例も珍しくありません。日本仏教の真骨頂は正にこの点に見出すことができます。つまり、万物に命がある、魂がある、霊があるという感覚が発展した、その極地にあるということなのです。

仏教は懐が深い宗教であるため、その土地その文化に合わせて形を変えてきました。ですから、このような特徴を持つ日本仏教は、中国、朝鮮、チベット、インドなどの仏教とは違うものですが、それは全て仏教に違いありません。ですから、その他の地域にある、排他的で一つの価値観しか認めないという宗教のあり方と比べると、仏教が持つ、包み込むような多元主義は、環境問題を考える上で大変重要なことなのです。

なぜ日本人は、大事なものを奥に据えるのか

薗田 稔 氏一方、日本人が言う「神」とは、見えないから神なのです。神秘的とは目に見えないものであり、神は見えないから有難いものと考えられてきました。

建築家の槇文彦さんは、日本の集落や居住空間において大事なのは奥だと指摘しています。例えば、ヨーロッパや大陸の集落の場合、その中心は広場です。広場の中心に堂々たる聖堂があり、どこが中心かがすぐ分かります。ところが日本の集落には、そういう意味での中心がなく、道路沿いに広がって存在します。江戸城を囲むように江戸の街が存在したのは、戦略的な計画による例外であって、日本の集落の一般的な形ではありません。村の中心に広場があって、そこにお宮があるというような例はありません。お宮は常に奥にあります。つまり、人々の感覚的に大切なもの、神聖なものは、賑やかな集落の奥に配置されてきました。では、なぜ奥にあるのかというと、そこには山や森、水源が控えているからです。つまり、「私達は自然に生かされている」という集落のあり方なのです。中心に広場がある集落は、大抵その周囲に城壁があり、周囲の自然から隔離され、人間だけの世界が築かれました。京都や奈良は大陸の都を模して作りましたが、城壁はありません。つまり、周りの自然と一体になって、初めて日本人の集落があるのです。そのシンボルが、奥にあるお宮だったのです。

命、それは「繋がり」

薗田 稔 氏宗教の中で言う「命」とは実はそういうことで、単に人間様の命というだけではなく、冒頭で申し上げたように、心を伴った命であり、周囲との繋がりの中で維持されてきたものなのです。それは宗教的に言えば、「神仏」という言葉の中で多元的に捉えてきたもので、仏教的に言えば「仏」になり、日本語では「神」、或いは「御霊」と呼ばれてきました。そして、それは供養しなければいけないものです。私達は神様や仏様にお供え物として食べ物を供えます。しかし、キリスト教やイスラム教の聖堂で食べ物を供えているでしょうか。そこでは、命の糧である食べ物を神に供える必要はありません。遥かにこの現実を越えた存在であるそれらの神に対し、人間の食べ物を供えることに意味はありません。一方、日本人は、亡くなった人に対しても同じ命だとして食べ物を供えます。このことは、我々の世界が命で共有されたものであるという特徴を示しています。ですから、この「命」を大事にするということが、少なくとも環境問題を考える上での命題になってくるのではないでしょうか。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン