レポート

パート 3 「環境」の20年 〜リオ+20の節目を前に〜:「環境サミット」と言われるリオサミットが開催されて来年で早20年。節目の年となる2012年には同地で「Rio+20」が開催されます。これまでとこれからの問題解決の糸口を探ります。日程:10月18日(火)10月25日(火)11月8日(火) 10月18日(火)

NPO・NGOの台頭と環境政策

小林 光(ひかる) 氏慶應義塾大学大学院教授

藤井 絢子 氏NPO法人菜の花プロジェクトネットワーク代表

リオサミット以降20年間の日本国内の状況変化を見つめると、「NPO・NGO」の台頭という大きな変化があります。社会の変革を促す新たなステークホルダーとしてどのように誕生し、そして影響を与えてきたか、前環境事務次官の小林光氏と、NPOの草分けである藤井絢子氏お二人の対談を通じ、環境政策の歴史とともに振り返ります。

小林光氏プレゼンテーション

1972年に「国連人間環境会議」がストックホルムで開かれました。ここでは、当時、北欧を襲った酸性雨をはじめとする各地の公害問題に対して、各国が国境を越えた協力でいかに克服するかという認識が生まれたのです。その20年後の1992年、リオ・デ・ジャネイロで行われた「環境と開発に関する国連会議」では、地球上の環境問題に対して、「アジェンダ21」という41章500ページに亘る全世界での行動計画が作られました。20年前に合意されたのは、公害からの被害を防止するというネガティブチェックであり、国民は被害者であるという思考で、それが環境問題における哲学でした。しかし、この会議を経て、国民もまた環境問題における加害者であり、恵みを確保するために何をすべきなのか、どう参加し、役割分担が何なのかを考えるポジティブチェックの思考を持つに至ったのです。そして、そこからさらに20年が経ち、2012年に「リオ+20」が開かれます。ここでは、経済は環境問題の加害者であるという思考をさらに進め、環境が守られると同時に経済活動ができるという、グリーンな経済をいかに作っていくかがテーマとなります。人類は、20年ごとに新たな哲学を生み出してきました。この20年を経て、どんな新しい哲学が2012年に生まれるのかを注目しましょう。

藤井絢子氏プレゼンテーション

1972年、琵琶湖の総合開発が始まりました。これにより、湖岸に広がる多くのヨシが奪われ、湖の生態系が破壊。ほどなくして赤潮が発生しました。この時、周辺住民は、自分達もまた琵琶湖を汚している加害者だという自覚から、合成洗剤をやめて石鹸の使用に切替える運動を展開。せっけん条例などの成立が実現しました。しかしその後、83年に今度はアオコが発生。琵琶湖の水環境の再生運動を展開しましたが、追い打ちをかけるように、90年代には地球温暖化が湖水の循環に影響を及ぼすようになりました。こうしたことから、地域内でのエネルギー自給を目指し、まずは廃食用油からのバイオディーゼルづくりを、更に1998年には、すでに第一次オイルショックの時にドイツが始めていた取組にならい、耕作放棄地や休耕田などで菜の花栽培をスタートさせました。こうして始まった「菜の花プロジェクト」は、資源循環サイクルの確立を目指して、現在全国160ヶ所をはじめ、モンゴル、韓国、中国、ウクライナにも広がり、持続可能な社会づくりに取り組んでいます。

若林千賀子氏プレゼンテーション

1987年9月、山梨県清里で、第1回清里フォーラムが開かれました。当時の環境保護活動とは、各地で「地域の自然を守る会」のような集まりが、バラバラに活動しているもので、いわばそれぞれの地域で孤立している状態でした。当時はまだインターネットもなく、他団体の情報を得たり、コミュニケーションすることは今よりずっと困難な時代でした。そんな各地の活動を、どのように社会運動に発展させていけばいいのか、誰もが分からない状況の下、その問題意識の共有や、情報交換の場として設けられたのが、清里フォーラムです。これが、現在の日本環境教育フォーラムに発展していったのです。

ディスカッション

(若林)このお仕事に就かれた動機は何ですか。

(小林)私はもともと環境が好きだったことが一番の理由です。当時、環境で給料を貰うとしたら、これしかなかったので環境庁を選びました。実は面接の時、環境で食べていける国づくりをしたいと答えたくらいです。

(藤井)私の場合は、琵琶湖との出会いです。琵琶湖は実に魅力的な湖で、固有の生き物がいて、食べ物が美味しくて、周辺の文化と一体となった地域性も素晴らしくて、琵琶湖がなかったら私の活動も、ここまで続いていなかったのではないでしょうか。

(若林)私も藤井さんと似ているかもしれません。結婚し清里に移住してから、そこに住む人々に触発されたことが動機になっています。ところで、今日のお互いの話についての感想を聞かせて下さい。

(小林)一つには、現場が大事なんだと思いました。環境とは繋がりです。環境を守るとか改善できる現場はどこにでもあって、全てが繋がっているのです。何にでもエコはくっつくし、どこにでもエコはあるので、その小さいことからしっかりやっていくと、大きく世の中が変わるのではないでしょうか。そしてもう一つは、東日本大震災がリオから20年後にやってきたというのは、歴史的意味があるということです。私は、これによって環境の哲学が変わっていくのだという想いを強く持っています。個人的な意見ですが、「持続可能な開発」というのは人間中心主義だと常々感じていました。やはり人間が自然の生態系の中で「いい一部」になる、そんな自然共生ブランドのようなものを、日本として打ち出していかないといけないのではないでしょうか。日本にとっては自然共生が次の突破口になり、それをどこの国も真似できないレベルでやっていくことが、一つの答えになるのではないかと思います。

(藤井)私は現場第一で、徹底的に現場で動いてきたのですが、その限界も感じています。市民には予算権がないのです。私は、こうした活動は補助金や委託金でなく、本予算に入れて欲しいとずっと言い続けています。しかしこうした話を持ち出すと、役所の人々は自分の予算が削られることを恐れて話が進みません。旧態依然としたこの部分を21世紀型に改めていかない限り、市民の知恵もパワーも、本当に意味で形のあるものにはならないと思います。

(若林)震災があって、脱原発なのかどうかなど様々な議論があります。私たちは、本当に大変なミッションを負ってしまったわけですが、20年後の若い人々が、「日本人は震災や原発事故をどう克服したんだろう」と話すところを、ぜひ想像して欲しいですね。私たちは20年後の人々に評価される立場にいるということをよく自覚し、今、私たちが環境問題に関わっている意味は、そこにあると考えるべきなのではないでしょうか。今日はどうもありがとうございました。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン