市民のための環境公開講座2015

環境問題は、自分問題。

お知らせ 本年の講座は全て終了致しました。ご参加いただき、誠にありがとうございました。ダイジェスト版を掲載いたしました。

パート3 持続可能な社会の実現に向けて[新宿会場 18:30〜20:15]

「持続可能な社会」実現の可能性を考える 12/1 (火) レポート

「持続可能な社会」実現の可能性を考える

講座概要

第一に、環境ってじつは自分の裏返しだという説明をしたいと思います。「自分をとりまくもの」が環境ですから、自分がないと環境はないのです、そのあたりのことをまず。次に「持続可能」ということです。あなた自身が毎日歳をとって変わっていくのですから、そもそも持続可能とはなんのことでしょうか?そこから考えてみたいと思います。

「持続可能な社会」実現の可能性を考える

現代の「壁」は何か?

養老 孟司 氏

東京大学名誉教授

「環境」と「自分」

養老 孟司 氏私が子供の頃に「環境」という言葉はありませんでした。「家庭環境」という言葉はあったかも知れません。これは随分インチキな言葉だなぁと思うんですが、例えば、兄弟にとって、その環境は全く異なるものです。兄にとっては「弟がいる家庭」ですし、弟にとっては「兄がいる家庭」です。それは夫婦や親子にしても同様です。同じ家にいても、双方が見ているものは全く異なるのです。ですから、当事者同士で意見の食い違いが生まれるのは当然のことではないでしょうか。

環境の定義は、「自分を取り巻くもの」です。つまり環境を論じる時、「自分」の存在が前提となります。このことは現代に生きる皆さんには当然のことかも知れませんが、江戸時代にまで遡れば、中心になるのは「自分」ではなく「家」です。昔は「環境」という言葉が無かったと申し上げましたが、その理由は「自分」が無かったからで、結局、「環境問題とは自分問題」ということになるのです。

養老 孟司 氏この「自分」という考え方は、明治時代に欧米から入ってきたものです。明治の人は、これを「西洋近代的自我」と呼びました。更に戦後には「アメリカ的自我」というものも入ってきて、日本人がそれまで持っていなかった「主体性」というものを求められる世の中になりました。「コーヒーにしますか?紅茶にしますか?」という選択に代表されるように、西洋は主体を考える文化であり、人それぞれが様々な状況の中で選択をする、その積み重ねが人生だというのが彼らの常識です。そういう文化だからこそ、自分を取り巻くものが「問題」になるのです。日本人に「環境」という言葉が無かったのは、環境と人間はひと繋がりのものだと考えていたからです。環境問題とは、国際会議に集まって話し合うようなものではなく、元から皆さんの身近にあった事柄だったのです。そんな社会だっだので、江戸時代は高度な持続可能社会を作ることができたのではないでしょうか。

私たちは本当にエネルギー問題を考えているのか?

養老 孟司 氏私は、「持続可能な社会」とは、皆さん方が適当に暮らしていって無理が来ない社会であると考えています。だとすると、ここまでエネルギーを使う必要があるのでしょうか。衛星写真で見た時に、夜景の明かりであそこまで日本列島が明るく浮き上がり、逆にそのポジ効果で明かりの無い山脈が見えてしまうほどに明かりを点ける必要があるのでしょうか。

今までの法則では、経済成長は基本的にエネルギー消費と並行します。人間が働き、人力で実体経済が動いていた江戸時代は、経済成長してもエネルギー消費は増しませんでした。しかし、現在の実体経済はエネルギー消費に依存しているので、「いくら儲けた」ということは「いくらエネルギーを消費した」ということと殆どイコールです。ですから、一方で「景気を良くしろ!」と言っておきながら、他方で「省エネしろ!」と平気で言うのは、エネルギー問題を考えないで済ませているのと同然です。そんな調査不足とも言える状況が、今、庶民レベルにまで蔓延しているように感じています。

一つにくくらない 結果を予想しない

養老 孟司 氏今、この壇上から見える皆さんは一人一人違う人間です。しかし、意識は「人」と一くくりにします。子供はこの違いに実は敏感ですが、大人は周りと同じにしてしまうのです。そして、動物は更に敏感です。動物は知覚よりも感覚優位です。どの位感覚優位かというと、逆説的な言い方ですが、言葉が使えない位に感覚優位です。世界の自然の状況を「環境」と一言で呼んでしまうような乱暴な言葉遣いを動物はできません。このように、人間は本当は異なるものを同じにして見てみしまうために、作るものが同じになってしまいます。そういうものを私は「人工物」と呼びますが、東京はそんなものだらけです。そういった人々が論じる「環境問題」とは何でしょうか。違いを嫌うような人々に、私は環境のことを任せることはできません。環境とは一つ一つが違うものなのです。

先ほど、西洋的自由とは「選択の自由」だという話をしましたが、アジア的自由とは「与えられたものの前に立ち、何の制約もなく思いのままに考える自由」です。ですから私は、選択の自由を持ち出して、「じゃあどうすればいいのか?」という話を大抵しません。その考え方自体が、とても間違っている気がするのです。何故なら、それは結果を予想して行動するからです。結果を予想して行動するのは、意識が一番得意とすることで、人間がこればっかりやってきたからこうなった・・・というのが私の結論です。

養老 孟司 氏今は、「ああすれば、こうなる」的な思考が日本の常識です。私が何かを考えて、学生に「こうやってみたらどうだ?」と言うと、彼らは「先生、そうしたらどうなります?」と言います。「やってみなきゃ分からないだろう」と答えると、「先生、無責任なこと言わないでくれ」・・・となります。会社で、「課長、来年からこういうことやりたいんです」と言いに行って、「でも、やってみなきゃ分かりません」という提案をしたら、「顔洗って出直してこい!」と怒られます。皆さん、そういう風に対処していませんか。そういうことでは、環境問題は多分片付きません。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦