ひ弱な少年から“14サミッター”へ
2012年5月、世界に14座ある8000m峰完全登頂を日本人で初めて達成し、「14サミッター」と呼ばれるようになりました。しかし、子供時代の私は心臓疾患があり、実は、3ヶ月もたないかも知れないという状態で生まれました。そのため、ひ弱で幼稚園を休んでばかり。小学校に上がってからも、体育が苦手な少年でした。また、学校を休んでばかりなので、勉強もついていけません。そこで、東京の千代田区が初めて募集した子供自然体験教室に参加してみることになりました。結果として、この活動には中学・高校と参加を続け、大学ではこの教室のカウンセラーを務めるまでになりました。一方、高校では山岳部に入部。顧問の先生から岩登りや雪山の魅力を説かれました。しかし、高校生はそれらに登ることはできなかったので、大学で再び山岳部を選び、ヒマラヤを目指す人生がこうして始まりました。
「プロ登山家」と名乗る理由
14座を登頂する過程で、運命的な出逢いとともにメインパートナーとなったのが、ドイツ人クライマーのラルフ・ドゥイモビッツと、オーストリア人女性クライマーのガリンダ・カールセンブラウナーです。一座一座制覇していく中で、私たちはある時、ラルフはドイツ人初の、ガリンダは女性初の、そして私は日本人初の14座完全登頂を目標にしようと誓い合いました。多くの先輩方は、この14座登頂を目指して命を落としています。極めて危険で困難なこの目標をやり遂げるために、私は記者会見を開くことにしました。命を落とすことなく全てを登り切る、途中で決して止めないことを宣言する必要があると考えたからです。
ところが、この記者会見を目前にして、私は一つの疑問にぶつかってしまいました。記者会見をするとなると、私は自己紹介をしなければなりません。その際には肩書きが必要です。一般的には「登山家」とでも名乗るのでしょうが、どうもこれに納得がいかなかったのです。「○○家」という職業は、もし誤解を恐れずに言わせて頂くとしたら、資格が必要ないものが殆どです。誰もが、そう名乗ってしまえば、その時からその職業になれてしまうのです。逆に言うと、好きな時になれて、都合が悪くなったら辞められるわけです。これが私は嫌でした。そこで、自分の肩書きを「プロ登山家」としました。「プロ」の部分は、私はこれを決して辞めない、続けてみせるという覚悟なのです。
「続ける」、それは「意志」
その後、2007年に挑戦したガッシャブルムⅡに登る最中、私は雪崩に巻き込まれ、東京タワーの高さに相当する300m落下。腰椎破裂骨折という重傷を負い、命を落とす寸前までいきました。しかし、各国登山隊の救助や、ちょうど別の山を登っていたラルフがバキスタン大統領にかけあってくれたおかげで、奇跡的に生還。本来は助からなかったであろう事故で、私は、亡くなった他のメンバーから少しずつ命を分けてもらい、生き続けることができたと思っています。そして、周囲が復帰を絶望視する中でリハビリに励み、1年後、同じこの山を登頂することができました。そして再び、登っては降りる、登っては降りるという「登山の連鎖」に戻ったのです。
私は、多くの方々から「14座完全登頂」と評価して頂きます。しかし私は、「14座」という山を登ったわけではありません。その一つ一つを登ったのです。14座に到達したかったのではなく、次の山、そのまた次の山に行きたくて14座を目指しました。14座を登頂して、「次はどうするんですか?」とよく聞かれるのですが、「次の山に登る」としか私には答えようがありません。私は、自分の人生の時間を使って、この「登山の連鎖」をどこまで続けられるかに挑んでいるだけなのです。この講座のシリーズテーマが「持続可能な社会は実現するか」ということですが、それは皆さんが続けるつもりがあるかどうか、それにかかっているということではないのでしょうか。
構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン)