パート3・日本の知恵に学ぶ
お申込み



第4回 ・

徳川日本は「環境先進国」だったか?

2008年02月19日


鬼頭 宏 氏 【上智大学 教授・上智大学 地球環境研究所長】


江戸時代は人口減少が起きた時代でした。日本の人口の歴史を振り返ってみると、こうした現象は何度か起きていて、縄文時代後半、鎌倉時代、そして江戸時代後半がそれにあたります。それぞれの時期に一体何があったかというと、縄文時代後半は寒冷化、平安から鎌倉時代にかけては気温上昇による少雨・日照りの頻発、そして江戸時代後半はというと、ちょうど過去2000年の中で世界的に最も気温が下がった「小氷期」でした。

では、それぞれの時代の後になぜ人口が増加に向かったのでしょう。気温が正常化したからでしょうか。より注目すべきなのは、前後の時代の生活様式の変化です。狩猟採取社会だった縄文時代の後には、稲作農耕社会の弥生時代が生まれました。鎌倉時代の人口減少は、それまで社会基盤となっていた律令制度が緩み、水道などのインフラが維持できないという社会経済的要因の影響も否定できません。そして江戸時代には3000万人の人口がいましたが、実はこれが当時の制度下で維持できる人口の上限近くに来ていました。そこへこの上限を下げてしまうような小氷期が訪れたのです。人口が上下する要因は、文明が持っている限界を人口が越えた時、つまりこの社会体制ではもうこれ以上の人口を養えないという時に、環境変動の影響を受けてしまうのです。

McEvedy & Jonesによる1850年の世界人口ランキングを見ると、この時代の日本の人口は3300万人で世界第6位です。因みに江戸時代初期の人口が1000万人強でしたが、江戸時代の社会システムを考えると、3000万人を突破した後期は、ひとつの成熟した時代に到達していたと表現できます。ここで言う「成熟」とは「それ以上変化しにくい」という意味です。こうした時代に、世界的な寒冷化が起こり、一方で3000万人超という世界有数の人口大国になった事が国土に対する人口圧力となり、土地や水などに影響を与え、更に鎖国による工業化の遅れが既存技術の限界をも招き、人口減少という事態を引き起こしたと考えられるのです。

このように江戸時代の後半は、これ以上人口が増えず拡大しない「定常社会」であった訳ですが、その一方で多くの人々が指摘しているように模範的な循環型社会でもあり、これが決定的な破綻に至らず、バランスを保持することに一定の役割を果たしました。また、もう一つそれを可能にしたのは「我欲の抑制」という哲学があったことです。人々は生活のバランスを取るために、色々なエネルギーの節約も行っていました。アメリカ人のスーザン・ハンレイという経済学者は、江戸時代の人々について「非常に慎ましいけれども快適な生活」「簡素で豊かな生活」を送っていると表現しています。物質的に豊かではないけれども、人間の資質の高い社会を形成し、際どいバランスの上に乗っかっていたのが江戸時代の社会だったのです。

同じように人口減少時代を迎えてしまった21世紀の日本社会が、江戸時代から学ぶべきポイントは「時間を大切にすること」であると私は考えています。江戸時代はほとんど生物的資源によって支えられた社会でした。生物的資源とは、一年間の中でいつ種を蒔き、いつ刈り取り、どの位の量が穫れるか大体決まっています。つまり植物の成長量が、社会の成長量、或いは維持できる規模を決めていたため、生活のスピードも自然のスピードに合ったものでなければならなかったのです。もちろん江戸時代と同じ生活をすることは今の私達には不可能ですが、エネルギーと物質の循環速度をどう合わせるのかを、ここから学び取ることは出来ます。

歴史的に見て、人口減少はその後の新しい文明を作り出すステップです。その時代の技術開発や生活の工夫がそれを可能にしてきました。このステップを乗越えれば、安定した次の時代を再び迎える事が出来ます。その意味では21世紀のこれから20〜30年はもの凄く重要な時代になるのではないでしょうか。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン)


トップに戻る