パート3・日本の知恵に学ぶ
お申込み



第2回 ・

江戸に学ぶ環境問題

2008年01月22日


徳川 恒孝 氏【徳川宗家第十八代当主・日本郵船株式会社顧問財団法人 徳川記念財団理事長】


江戸時代の「平和」は当時の社会に何をもたらしたのでしょう?一番大きな事は、軍事費用が民政費用に切り替わった事です。戦争はいつの世の中でも猛烈にお金を食います。しかし、もはやそこに回す必要がなくなったため、大土木工事時代を迎えたのが1660〜70年までの世の中でした。全国的に河川の治水工事が行われたのをはじめ、新田開発、法律整備、城下町の発展、街道の発達、全国貨幣流通、度量衡統一などが行われ、元禄時代に花開く爆発的な市場経済の礎ができたのです。

そして今日は皆さんのお手元に、そんな元禄時代から更に100年が経過した1810〜20年頃の日本橋の賑わいを描いた絵をお配りしました。当時の商いをする場所には、物を売りに来る人が約7割、買いに来る人が約3割だと、前回の講師を務めた石川英輔先生の本には書かれています。もちろん売る側は魚屋や八百屋をはじめ色々な商人が集まってきましたが、買う側もまたありとあらゆる物を買っていきました。紙や布切れはもちろん、割れた下駄、壊れた唐傘…修繕できる物は何でも買っていきましたし、どうにもならない物は風呂屋が買って焚き付けにします。髪結い処に落ちている髪の毛、かまどの灰、生ゴミ、肥料にする為の排泄物…考えられるものは全て買っていかれるというリサイクル社会のシステムが出来上がっていました。

このような文明の下では、今日私達が言うようなエネルギー問題は一切無かったのです。生活を支えていたのは、太陽、雨水、風、人間の力、牛と馬の力…それだけでした。様々な道具類は木材でできていたため人々は森を大切にし、道が悪かったこの時代の物流は陸上よりもむしろ水上が主だったため、川もきれいに維持管理がされていました。川岸から何間の距離は汚物が染み出すので便所を掘ってはいけないとか、川に物を捨ててはいけないといった具合です。社会全体が自然に対する負荷を最小にしていたのです。

ところでこの絵よりも時代が遡りますが、八代将軍吉宗は日本で初めて人口調査と各種製品の生産量調査をした人物でもあります。諸大名からは、藩の経済状態を知られるという意味で嫌がられたこの事業ですが、実はこれは我が国の「物」と「人間」のバランスがどうなのか、これ以上人間が増えた場合にどうなるのかを調べるためのものでした。「人口対資源」…そういう観念が既に1700年代半ばに生まれていたのです。

そんな視点を更に良く示しているのが、かの「ペリー来航」を巡る江戸幕府の対応です。アメリカの提督・ペリーがやって来る事は、前年にオランダから通知されていたことですが、幕府はこの時、長崎のオランダ商館に役人を派遣し議論の予行演習をしていたという記録があります。『どうしても開国しろというなら開国はします。寄港は認めるし、食料品も与えるし、水も補給するし、薪も与えます。しかし貿易はしたくない。なぜなら日本は人口と産品のバランスがきちんと取れている。

豊かに暮らしているが、余裕は全くない。ここで貿易を始めて私達の大切な物をあなた達が大量に高い値段で買ってしまうと、需給バランスが崩れてしまう。それはあたかも一つの井戸を二つの家族で使って枯らしてしまうようなものだ。一度枯れた井戸は二度と元には戻らない。』…このような議論で受入れてくれるかどうかを商館長と検討していたのです。結局ペリーとの1回目の交渉では和親条約だけが結ばれ、通商条約を引っ込めてペリーは帰っていきました。

人口と資源のバランスという考え方を18世紀半ばから理解していた日本に対して、西洋でこの発想が登場するのは20世紀に入ってからのこと。島国として限りある国土を生きてきた日本人と、あっちが無くなったらならこっちを式に資源を求め、果ては植民地を獲得してそこの民族に作らせて…という大陸を生きてきた人々との大きな差が既に江戸時代にあったのです。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン)


トップに戻る