パート2・社会科学系温暖化論
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第1回 ・

日本の環境政策 アメリカの環境政策

2007年11月06日


畠山 武道 氏 【上智大学大学院 地球環境学研究科 教授】


アメリカという国は、ニュースなどを見ていて「どうしてああなるのか?」と、ときどき日本人には理解できなくなるところがあるかと思います。そこで、環境問題における意思形成・合意形成において日本とアメリカにはどういう違いがあるのか、なぜブッシュ大統領は独自の判断で京都議定書から脱退したり、環境対策を引き延ばしたりできるのか。これらの問題を考える場合、環境政策の成り立ちからたどってみると分かりやすいのでないかと思います。

そもそも環境問題の発生は世界共通のもので、大体同じような時期に同じような事件が各国で生じました。ヨーロッパはもう少し早いかもしれませんが、日本でもアメリカでも1880〜1900年頃に環境問題が発生し、政策(対策)と呼ぶべきものが始まっています。アメリカは、あの広大な土地にヨーロッパから人が渡り、短期間に自然を大改造したという歴史がありますが、その過程で森林破壊、野生動物・漁業資源の乱獲、無法な鉱山採掘などが大規模に行われました。一方、日本は明治時代にあたるこの時期の急速な工業化によって、足尾銅山鉱毒事件などをはじめとした公害問題が発生しました。アメリカは自然保護対策、日本は公害対策から環境問題が始まっているといえます。その結果、日米とも1900年前後の時期に環境政策の始まりを告げるいくつかの法律が制定されているのです。

しかし1900年以降の日米の環境政策の歩みは対称的なものとなります。20世紀初頭のアメリカは大企業の横暴や政治腐敗が激しかったことから革新主義が台頭し、市民運動が盛り上がりました。そのため自然保護の動きも、トップダウンの決断と下からの(市民、技術者、行政官、ハンター、学者などの)盛り上がりがうまく絡まる形で広がりを見せました。また重要なことは、みんなが意見を述べて決定するという民主主義のベースがもともとある国なので、環境保護運動にも多くの人が違和感なく参加したという事情もあります。対する戦前期の日本は、産業政策が優先されていました。このため住民運動は国から敵視され、足尾銅山の鉱毒被害をめぐる運動では素手の農民を警官が武力で蹴散らすようなことすら平気でなされたのです。

そして戦後になります。戦勝国アメリカは繁栄の時代に突入し、「豊かな社会」が到来します。もともと野外レクリエーション好きのアメリカ人は、大挙して野や山に繰り出します。…すると(住宅建設のために)ばっさりと木を切られた空き地(とくに国有林)があちこちに出現。という具合で、広く一般に自然保護への関心が高まってきます。もちろんこの時期、敗戦国・日本は、とてもそんな余裕はありませんでした。

こうした時代を経て、1970年頃になると、自然保護のために裁判を起こすという試みが始まります。それ以前には、裁判で環境を保護するという考えはアメリカにもなかったのです。そして「環境の10年」と呼ばれる1970年代が始まります。アメリカの画期的な数々の環境保護法や環境保護団体は、大体この時代に作られています。そして日本では戦後復興・高度経済成長の時期を経て、1960年代に公害が激発します。そしてまさに1970年の「公害国会」で多数の法律が制定され、翌71年の環境庁設置によって、国による公害対策がようやくスタートしました。1970年代になって、ヨーロッパも含めて、ほぼ世界的に環境問題に対する取組みが動き出す時代がやってきたのです。

このような経緯から導き出される日米両国の特徴とはどんなことでしょうか。自然保護の伝統があるアメリカは、自然保護は進んでいますが公害対策は遅れぎみです。また自然保護に対する市民の関心が高く、民間団体の自主的活動、ボランティア、寄附なども盛んです。議会も裁判所も強い力をもっています。そのため相対的に行政の力が弱く、企業も行政に簡単には従おうとはしません。そのため、誰の主導で環境対策を進めるかがハッキリしない所がアメリカの環境政治・環境政策の問題といえます。

一方公害対策から出発した日本は、行政が強い権限をもち、規制・強制・処罰という手段を背景に短期間に公害対策を実行しました。中央集権的な力を利用して一気に目に見える公害を解消したため、世界から「公害対策の優等生」と評価されています。しかしそのため、上位下達・指示頼みの構造が生まれ、企業は「規制される対象」として自主性を欠き、民間団体は育ちにくいという特徴を指摘できるのではないでしょうか。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン)


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