講座レポート



パート3・第1回



環境問題 〜科学史の一視点から〜



2007年01月23日


村上 陽一郎氏 【国際基督教大学大学院 教授】


科学史の分野で環境問題はどのように扱われてきたのかをお話しするために紹介したい人物が、中世技術史に関するアメリカ人専門家のリン・ホワイトJr.です。彼が1968年に発表した書物が「Machina ex Deo」、日本語にすると「キリスト教から生まれてきた近代科学技術文明」という意味のものです(みすず書房より「機械と神」として出版)。

この時代、ダーウィンの進化論に反対する態度にも表れていたように、キリスト教は近代科学技術文明に対して完全な反対者だったというのが通説でしたが、ホワイトは、むしろ近代科学技術文明はキリスト教から生まれてきたと主張しました。そして、近代科学技術文明が環境問題を生み出したということは、キリスト教こそが環境破壊の歴史的源泉だとしたのです。

彼はその理由を創世記・第一章28節の言葉に見出しました。『神は彼ら(アダムとイヴ)を祝福して言われた「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」』。創世記のこの言葉は、人間は神によって地の支配を委託された存在であることを示し、例えば、道路を真っすぐに引こうとした時に一本の木が邪魔だったら、人間はその意志によって木を切り倒すことを選ぶように、この言葉に基づくキリスト教・ユダヤ教は環境破壊の源泉だと説いたのです。

この説に対しては、キリスト教の中にも救いとなる言葉が他にありますし、またいくつかの視点からこれに疑問を投げかける事もできます。そのひとつとして、科学技術文明が生まれたのは、キリスト教から人々が離脱した18世紀啓蒙主義時代以降の事ではなかったという点が挙げられます。啓蒙とは、「蒙」すなわち「暗い状態」から扉を開くことであり、ここで言う暗い状態とはキリスト教を意味しています。つまりキリスト教によってくらまされていた人間理性を解放していくのが啓蒙主義であり、これに基づきキリスト教にNOを言う人物が現れ始めたのが18世紀という時代なのです。

確かに、科学はキリスト教から生まれたというホワイトの判断は正しいと言えます。17世紀、ニュートンの時代までのヨーロッパ通常科学と呼ばれている人々の考え方は、神がいかに自然を支配しているかを理解することが自然を勉強する目的でした。「law」【法則】という英単語の起源を辿ると、かつては「lay」【置く】の過去分詞だったと言われています。つまり「law」とは【置かれたもの】という意味を内包しているのですが、それは「神が自然の中に置いていった=整えしつらえていったもの」という解釈をすることができます。同様にドイツ語の「Gesetz」【法】もまた、「setzen」【整える】の過去分詞でした。つまり、そういう解釈で自然(=神の計画)を理解しようとしていたのが17世紀までです。

ところが18世紀になるとその「神」が棚上げされ、人間が支配者・主人であり、人間の欲望において自然を矯正し自然から収奪する事が出来るという文明のイデオロギーが一般的となります。つまり神を前提とするユダヤ・キリスト教の構造があったからこそこの考えが生まれてきたという意味ではホワイトの説は半分正しいと言えますが、こうしたイデオロギーは、キリスト教の否定、言い換えれば神を失うことで初めて生まれてきたとも言えるものなのです。

構成・文:宮崎伸勝/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン)