中川志郎氏
講師紹介
中川 志郎氏
茨城県ミュージアムパーク自然博物館館長。(財)東京動物園協会顧問。
昭和5年生まれ。昭和27年宇都宮農林専(現・宇都宮大学)獣医科卒業後、獣医として上野動物園に入る。昭和47年初めて来日したパンダ、「ランラン」「カンカン」の飼育担当。昭和54年多摩動物公園にて飼育課長。昭和59年同園園長。昭和62年上野動物園園長。日本動物園水族館協会会長、国際動物園連盟委員などを歴任し、平成6年より茨城県ミュージアムパーク自然博物館館長。


私は、約40年にわたって動物園でたくさんの動物たちを世話してきた。それらの経験を通して、動物たちから多くのことを教えられてきた。

例えば、ゴリラは哺乳動物なので、出産するまでは母親の羊水の中にいる。出産のとき30cmの産道を通ることで水生動物が陸生動物に変わる。これは、たいへんな環境の変化である。人間も同じで、たった一度しか経験できないことである。生まれた子どもは母親に抱かれることによって精神的に安心する。これも哺乳動物に共通のことである。抱けない動物は、とにかく舐める。皮膚に刺激を得ることによって精神的に安定するのである。その元は、産道を強く密着することによって培われた感覚ではないかと思う。密着して初めて子供と母親との信頼関係ができるのではないか。

獣医学的にケアするということは、保育者にはなれても母親にはなれない。それが生物の融通のきかないところであり、それだからこそ、さまざまな動物たちが地球に生き残ってきたことでもある。

今、私たち人間社会では子どもたちをとりまく深刻な問題が数多く起こっている。小学校では学級崩壊が約2割もあるらしい。昔も学級崩壊と似たようなことはあったが、問題を起こしている子どもは悪いことをしているという自覚があった。しかし現代の子どもたちにはそのような自覚がない。どうしてそうなってしまったのだろうか。生物的な人間もこの地球上に生きている哺乳動物の一つにすぎないはずである。

子宮の中の胎児には「えら」がある。子宮の中で、爬虫類になり、哺乳類になり、霊長類であるヒトとして生まれてくる。ヒトではあるが、まだ人間ではない。ヒトは生物学的には、ヒトから生まれればヒトである。しかし人間は、「人の間」と書くように、ヒトとヒトとの間の空間を精神的につなぐ関係ができること。これを社会化というが、人どうしの付き合い方ができること。それが人間である。社会化の基礎は、母親とのアタッチメントにある。母親と子どもの圧倒的な密着関係がそれを培うのである。哺乳動物は子どもに乳を飲ませる。乳を飲ませるためには、どうしても母子が密着状態になる。これが重要なのである。チンパンジーは6ヶ月は地上に降りずに母親の身体にしがみついている。母と子どもが一体となっている。

出産は、生物学的にはヒトを生むが、ヒトが社会的につながる「人間」になるためには、基本的な結びつきや関わりが必要になる。そのような社会化ができれば、学校に行って先生の話を聞くことは苦痛ではない。生まれたばかりの子どもを最初から「人間」として考えてしまうと生物学的な部分がどこかに除外されてしまう。社会化できない前に人間社会に放り出されてしまうので、学級崩壊のようなことが起こるのではないか。

かつて上野動物園に在職中に、サマースクールをやっていた。そのとき、子ども達を相手に連想ゲームをやってみた。「ミルク」という言葉で何を連想するか子ども達に尋ねてみた。返ってきた答えは、驚くばかりだった。「冷蔵庫」、「テトラパック」、「牛乳びん」、「アイスクリーム」、、、、。私が求めていた答えは出てこない。私が期待していたのは、「乳牛(ちちうし)」という言葉だったのだ。要するに、子ども達にとって、「ミルク」と「乳牛」が結びつかないということだ。ミルクがどこから来るかわかっていないということなのだ。

現在勤めている博物館では幼稚園の先生方を対象にした実習を行っている。幼稚園の先生の中には、「乳牛」は乳を出すためだけの特殊な牛だと思っている人がいる。そうではない。「乳牛」だって交配をし妊娠をして初めてお乳が出る。乳を出す期間は限られている。子どもも生まれるが、生まれて1週間ほどで親元から離される。1週間の間は、初乳という特別な乳を本当の赤ちゃんに飲ませる。初乳は人間には飲めない。しかし、1週間後、その赤ちゃんは母親から離されて、それ以後は人工乳が飲まされる。親の乳を飲めずに人工乳が飲まされるのである。母親からでるミルクは私たち人間が飲むのである。それも人間の手で絞った乳ではない。今は真空で自動的に搾乳されている。昔の搾乳のように濡れた暖かいタオルで乳房を揉んで、親指と人差し指で根元を押えて順番に指を使って乳を絞っていくという搾乳ではない。昔は、相手が私たちと同じ暖かい体温を持った生き物であるということを実感しながら搾乳をした。そのお乳を出荷する。だから出荷しながらもミルクに愛着があった。しかし、今や自動的に搾乳される。一人でにミルクが貯まる。そのような状態で、どうしてミルクが暖かい私たちと同じ動物であるという実感を得ることができようか。だから、子ども達が「ミルク」という言葉を聞いても、「乳牛」を連想できない。幼稚園の先生が、「乳牛」は、妊娠しなくても乳が出ると本当に思い込んでいる。これで、「ミルク」といって「乳牛」が出てこない子ども達を責めることはできないだろう。それだけ私たちの生活は、本当の生き物や本当の自然と大きくかけ離れてしまっているということである。このような状況であれば、生き物でなくても人間の欲望を満たしてくれるものであれば良いという発想が生まれても仕方のないことだろう。このことは、ペットロボットの登場が顕著に示していることではないだろうか。

かつて、私たちは私たちの生活に一番役に立つ家畜を飼育してきた。家畜のおかげで私たちの人間生活はずいぶん助けられ豊かになった。馬は重いものを馬車として引きながら、人間の生活を助けた。東京でもまだ100年前までには馬車鉄道が走っていた。農家にとって馬は家族同然で一緒に生活していた。牛も同じである。しかし、機械化が進むと彼らは簡単に捨てられてしまった。人間はなんでも簡単に捨てる。多くの方たちが飼っているペットも簡単に捨てられる。ペットは今や「コンパニオン アニマル」という呼び名がついている。人間に密着して家族の一員として生活している動物という意味である。

しかし、異変が起きている。それは、ペットロボットである。30〜40代の人が圧倒的に多く購入しているという。通産省では、「メンタル コミット ロボット」というものを研究開発している。つい最近、アザラシ型のペットロボットが作られたそうだ。ここで驚くのは、「メンタル コミット ロボット」の役割である。人間の心にコミットして精神的な悩みを癒すという。それが目的としてロボットが開発されている。何が良いのかというと、不必要なときにはスイッチを切っておけばよいということである。生きているペットは餌をやらなければならないし、糞もする。世話がかかる。ロボットであれば、必要なときにだけスイッチを入れれば、動き出す。リセットさえすれば何回でも同じことをする。

早晩このようなロボットが地球上に人間社会に普及すれば、ペット達もかつての馬や牛のように、その存在は危うくなるのではないだろうか。かつてアシモフがペットロボットに対して警告を出したとき、当時は単なるSFの世界だった。しかし今やSFではない。現実として真近に迫っているのだ。こういう状況で育っている子どもたちは、本当に生き物としての心の通った人間の付き合いができるのだろうか。人間の人間同士のつきあいができるのだろうか。本当の自然の価値を認め、自然とのつながりが保てるのだろうか。私はとても不安に思う。

ロボットを開発するような技術の発達を否定はしないが、では本当の命とは何なのかということをどのように教えれば良いのだろうか。
命というものを根本にさかのぼって考え直さないと、本当の自然理解はできない。頭脳では理解できても実感として理解できない。ここが、とても重要なことである。

今、環境保護は大変に重要な意味を持つ。では、なぜ、私たちは何のために、環境保護をしているのだろうか。私はこう考える。根源的なこととして、自然の中で生きている「人間・ヒト」というものを明確に理解しない限り、環境保護は単なるお題目にすぎない。なぜなら、自分自身が自然の多くの動物や植物と直接つながっているヒト(ホモサピエンス)であるという認識がない限り、保護するものと保護されるものという関係にしかならないからである。パンダを保護するのはそれが絶滅危惧種であるからだが、その根本にあるのは、「人間が絶対有利であって、かわいそうな絶滅しそうな動物たちを救ってやるのだ」という思い上がった思想ではない。そのような思想である限りパンダや自然を救うことはできない。「人間も自然に生きている動物達も同じように命を共有している」という気持ちがない限り、人間も動物も救うことはできないのである。だから、わたし達はパンダを保護するのである。私たちと自然はつながっていて、その中の一つのファクターとして私である「人間・ヒト」がいるという認識を明確に知ることが大変重要である。それがわかって「人間・ヒト」を含めたあらゆる生き物や自然が共存することに意義があり、ゆえに環境を保護をしなくてはならないのである。そのために、私は環境教育をおこなっているのだ。
ここに犬がいたとする。子どもが石を投げて犬の足を折ってしまった。これは、大きな生命に対する侵害である。しかし、足を折られてしまった犬は、負わせた子どもに対して罪を課すことができるのか。今の日本の法律では、この子どもが行った行為は「器物損壊罪」である。物を壊したことと同じ意味なのである。生き物ではなく物という思想では、本当に生き物が大切なのかということが説得できるだろうか。

私たちの社会は、人間だけに都合良くつくられていると思って我々は生きている。でも、人間に都合が良くて人間の生活を豊かにし便利にしてくれていると思っていたものが、本当はそうではないということが、20世紀後半から私たちは明確にわかってきたではないか。狂牛病問題に代表されるように、すべてが経済性のみで図られているからである。
しかし、経済性だけでは図られないことがある。命や心である。その二つを取り戻さないと、人間が滅びるのは自業自得でやむを得ないが、他の生き物たちも巻き添えにしてしまう畏れがある。私たちの合理的で利便性の高い豊かな生活があるということは否定しない。しかし、その一方で、私たちの生活は大きな自然の生態系があって、そことつながっているから維持されているのだということを認識しないと、今の人間社会に起こっているさまざまな問題を解決できないだろうと私は考える。

人間と他の生物は、生命の根源として基本的に共通である。子宮の中の人間の赤ちゃんは、ゴリラの赤ちゃんと同じである。哺乳動物であれば5〜6週間の子宮の中に宿った胎児において大きな差はない。そういうステージを通って、人は人になり、ゴリラはゴリラになっていく。私たちは、私たち以外の動物と共通している部分があるということをもっと強く知る必要がある。子宮の中にいる285日間。地球上の生物が単細胞から類人猿を経て人間になっていく期間でもある。人間もまた地球上に生まれた一つの生命として、子宮の中では生命の歴史を繰り返しているということを強く認識していたいと思う。私たちは、絶対に生命の根源というものを、人間の経済性のみで支配してはいけない。


参考文献

タイトル 著者 出版
森は海の恋人 畠山重篤著 1994年
北斗出版
新・世界保全戦略 国際自然保護連合他 1992年
小学館
ネイチャーゲームで広がる環境教育 降旗信一著 2001年
中央法規
動物からおそわったこと 中川志郎著 1996年
アスペクト社
動物の「食」に学ぶ 西田利貞著 2001年
女子栄養大学出版


 
「インターネット市民講座」の著作権は、各講師、(社)日本環境教育フォーラム、(財)損保ジャパン環境財団および(株)損保ジャパンに帰属しています。講義内容を転載される場合には事前にご連絡ください。
All rights reserved.