講師紹介

佐竹  研一 氏

環境庁国立環境研究所酸性雨研究チーム総合研究官。
昭和20年生まれ。 昭和47年名古屋大学大学院理学研究科博士課程修了。昭和50年環境庁国立公害研究所(現、環境庁国立環境研究所)に勤務、現在に至る。理学博士。

1.はじめに

酸性雨をつくりだす酸性汚染物質の主な排出源は、以下のようなものである。
このうち 「農業・畜産によるアンモニアの放出」 は、なじみがないかもしれない。
アンモニアはもともとアルカリ性で、大気中では酸を中和する働きがある。
では、なぜ酸性汚染物質の主なものに入っているのか。
大気中に放出されたアンモニアは雨に溶け地上に降り湖や川の中に入ったときに、アンモニアを酸化して硝酸にするバクテリアと反応し硝酸に変化するのである。
酸性化した湖沼での魚の影響についても以下のようなことがわかってきた。
このようなメカニズムはさまざまな研究の成果によって明らかにされてきたが、「酸性雨」という言葉は、1872年にイギリスで生まれた。
酸性雨という言葉はじつは100年以上も前から存在していたのである。



2.産業革命と環境汚染

イギリスでは1750年に産業革命が始まった。
工業化が進み燃料としての木炭の需要が急速に高まった結果、森林資源が枯渇していった。
また、造船などでも森林材を大量に消費していた。
一方、イギリスには大量の石炭資源があったが、ここで採掘される石炭はイオウ分を含んでいたため、その石炭を燃焼してつくる鉄は非常に品質が悪かった。
そこで石炭を蒸焼きにし、イオウ分を取り除きコークスとする方法が発明され、これにより無尽蔵にあった石炭はたちまちコークスとして、産業革命を発展させていった。

工業化が進むと経済は発展したが、大気汚染が発生した。
大気汚染は、マンチェスター、グラスゴー、ニューキャッスル等を中心とする工業地帯やロンドン等の諸都市で進行した。

イギリス中部シェフィールドは、産業革命当時、全ヨーロッパの鉄生産量の40%を占めていた。
それまでのどかな田園地帯に囲まれた小都市であったシェフィールドは、製鉄所ひしめく大都市へと変貌した。
1872年、大気汚染研究のために雨水を調べたところ、酸性汚染物質が雨水に溶けこみ、化学的性質を変えて各都市に降っているという酸性雨のメカニズムが明らかにされた。

イギリスの大気汚染は、1956年に施行された大気汚染防止法以後改善はみられたものの、現在でも有鉛ガソリンが用いられるために、ロンドン市内での鉛汚染など問題は多い。
ヨーロッパは環境問題に対する取り組みが日本よりずっと進んでいると我々は思いがちであるが、じつはケースバイケースなのである。
ノルウエーやスウエーデンですら、ようやく有鉛ガソリンをやめようとしているのが現状である。



3.地球環境問題としての酸性雨問題〜ヨーロッパ

産業革命以後、ヨーロッパ各地で鉱工業は大発展していく。
これに伴って排出された大気汚染物質はやがて国境を越えて移流拡散し、いわゆる地球環境問題としての酸性雨問題を生み出していく。
ヨーロッパで発生した大気汚染物質は、大気の流れによってスカンジナビア半島に集まってくるのである。
ノルウエーやスウエーデンには自国で発生する量を大きく上回る汚染物質が大気の移動によってもたらされている。
そこで、新たに「長距離影響大気汚染」という新しい言葉が生まれた。国境を越えて広がってくる環境汚染のことである。

スカンジナビア半島の酸性雨については、捉えておかなくはならない要素がある。
それは、この地域の地質が花崗岩や花崗片麻岩から成っているということ。
花崗岩は、多量の珪素化合物を含むので酸を中和する能力が乏しい。
このような花崗岩や花崗片麻岩が分布している地域で酸性雨の問題が起きたということである。
スカンジナビア半島には石灰岩地帯もあるのだが、石灰岩地帯では酸性雨問題は起きていない。
中和されてしまうからである。

実はこれには、氷河と酸性雨問題との関係がある。
紀元前12000年頃、スカンジナビア半島は全域を厚い氷に覆われ、その氷の厚さは3000mくらいあった。
やがて氷河期が終わり、3000mという厚さの氷が移動消失していく過程で岩盤を削った。
ノルウエーの山岳地帯は岩がむきだしになっているがこれは氷河により削られたものである。
このような花崗岩地帯に大量の酸性雨が降ると、中和されずにそのまま流れていくのである。
このメカニズムにより、春先、酸性汚染物質を含んだ雪が溶けはじめると、一気に問題化する。

1976年にノルウエーのトブダル川でマスの大量死事件が起った。
サケ科の魚は酸に弱いが、トブダル川に生息していたブラウントラウトが一気に死んで有名になったのである。
これより以前から、ブラウントラウトよりもさらに酸に弱い大西洋サケという魚が徐々にいなくなっていることが確認されており、この兆候は徐々に進行していたことが分かっている。
研究者が調べてみると、酸性化した春の雪解け水が川に流入したこと、雪に蓄積していた酸性汚染物質は、英国やドイツなどヨーロッパ各地から長距離影響による汚染物質が主であることなどが明らかになった。
1976年にこのことが科学雑誌「ネイチャー」に発表されると、それまでローカルな問題だと思われていた酸性雨問題が、実は、地球的規模で深刻であることが判明していった。
これにより国際的な関心が高まり、地球環境問題の大きな一つとして注目されるようになったのである。

影響を受けたのは魚だけではなく、貝などの小さな生き物にも大きな影響を与えた。
貝は炭酸カルシウムからできており、環境酸性化の影響を受けやすい。
湖の生物は、食物連鎖によって皆つながっているので、生態系へ与える影響は大きい。

我が国でも湖に生息するヒメマスなどの調査によって酸性化の魚類への影響が研究されている。
湖や河川の酸性化への対策として、「石灰をまいて中和する」という方法が挙げられ賛否両論を巻き起こしたが、やがて結論がはっきりした。
それは、中和してpHは元の値に戻っても、生態系は元に戻らないということである。
酸性化したから中和すればいいという単純ではないということである。 酸性化しそうな湖が発見されたら、急激にではなく少しずつ中和し、生態系を維持したままで中和する改善策などが取られている。
いずれにしても、一度壊れた生態系を元に戻すのは不可能なのである。


チェコの森林被害は長い歴史を持っている。
チェコの森が最初に被害を受けたのは17〜18世紀頃である。
当時ヨーロッパではあちこちで戦争が起きており、チェコの武器は品質がよく、鉄を製造するための燃料確保のために森林が伐採されていた。
紛争が終結し平和がやってきたとき、人々は、農業、鉱山労働、ボヘミアングラス製造などに従事した。
この中で一番収入が良かったのがボヘミアングラスの製造である。
このグラスを製造するためには高熱にする燃料が必要で、そのためにまた森林が減少した。
現在、チェコとスロバキアは二つの国に分かれていて、人種的には同じであるが、歴史は非常に異なっている。
チェコはオーストリア帝国に支配され、スロバキアはハンガリー帝国に支配されてきた。
オーストリア帝国は、ボヘミアングラスを製造することを奨励したが、ハンガリーは国王の趣味が狩猟であったために、森は開発や伐採から守られた。
結果、チェコの森にはほとんど自然林はなくなり、スロバキアの森には自然林が残っている。
支配される国によって森の運命は二分したのである。
チェコではその後、森の回復のためにドイツトウヒなどが植林された。
この地域には非常に豊富な石炭資源があるが、この石炭もイオウを大量に含む質の悪い石炭であった。これを燃料にした火力発電所からは、亜硫酸ガスが放出され、ニ次林であるドイツトウヒは枯れたのである。
ニ次林であるドイツトウヒは酸性汚染物質によって枯渇が進み、酸に強い自然林は被害を免れているのである。
チェコでは、現在でも酸性雨問題は解決していない。

このような直接被害に加えてさらに間接的な被害として新たな問題が発生している。
石炭を採掘した後の鉱床に含まれるイオウが自然酸化し、硫酸を生成し、結果、強酸性重金属汚染湖沼などが出現しているのである。



4.日本の現状

日本では、750年に東大寺に大仏が鋳造された。
このとき大仏鋳造のために使用された銅の重さは約500トンである。
大仏製造は、日本における最初の酸性汚染物質を生み出したといえるかもしれない。
当時日本は銅の輸入国であったが、707年に武蔵国秩父郡(埼玉県黒谷)で自然銅の大露頭が発見された。
これを契機として全国各地で銅鉱床の探索と開発が進められ、それが大仏鋳造に至るのである。
山口県にある長登銅山は、大仏鋳造に貢献した重要な鉱山の一つである。
長登銅山は砒素を含む硫化銅である。その精製過程で発生した亜硫酸ガスは、砒素と共に大気を汚染し、精練作業に携わった人々の健康を害したと考えられる。

足尾銅山は1550年に発見された。
1680年頃、銅山からの鉱山排水のために渡良瀬川を登るサケが減少しているという江戸時代の記録が残っている。
1740年頃にはサケはほとんど漁獲できなくなっている。
1821年には農作物にも被害を与えている。
さらに近代化を目指した明治10年以降には銅の採掘量は急激に増大し、深刻な鉱毒被害が発生するのである。
これが足尾銅山の歴史である。
現在、足尾に行ってみると、未だ緑は回復しておらず荒涼とした風景が広り、一部に重金属を蓄積する耐酸性の樹木、リョウブやヤシャブシ等が繁っているだけである。

ここで、足尾銅山と非常に対照的な歴史を持つ日立銅山(茨城県)を紹介しておきたい。
足尾銅山と同じように日立銅山でも最初は、銅の精練に伴って樹木は枯れ、健康被害が続出した。
しかし、このとき日立銅山の経営者が取った諸対策および諸研究は、当時としては世界的にみても注目すべき画期的なものであった。
この経営者は陽明学を勉強しており、何とかこの問題を解決したいと試行錯誤を試みるのである。
成功例として、まず156mという当時としては世界一高い煙突をつくり、煙を拡散させた。
これは現代では許されるものではないが、画期的といえるだろう。
また、日本各地からさまざまな樹種を取り寄せ、煙に耐性する樹木を研究した結果、オオシマザクラなど数種が耐酸性樹種と分かり、大規模に植林を行った。
足尾は現在も荒涼としているが、現在の日立銅山の後は緑に包まれている。

日本の各地で行われた金属資源の採掘と精練は、このようにさまざまな歴史を持っている。
しかし、その後約5700と推定される鉱山も資源の枯渇や採算性などにより、ほとんど休廃止鉱山となっている。
このことは、もはや国内の鉱山からは酸性汚染物質の排出はなく、一見環境が改善されたかのように見える。



5.海外からの資源の輸入

しかし、我々は国内で産出している金属資源がないにもかかわらず、かつてないほどの量を消費している。

【銅の産出国と消費国(world resources 1996−97)】 単位:1000トン
産出国 消費国
第1位 チリ 2.219.9 第1位 アメリカ 2.674.3
第2位 アメリカ 1.795.4 第2位 日本 1.374.9
第3位 カナダ 617.3 第3位 ドイツ 983.1
第4位 U.S.S.R 540.0 第4位 中国 745.7

上記によれば、我が国では年間約137万トンの銅を輸入し消費している。
この約137万トンという数字であるが、大仏鋳造に約500トン使用したと前述した。
ということは、じつに奈良の大仏約3000体分を毎年消費していることになる。
これらの大量の銅を何に使っているかというと、全消費量の約68%を電線製造が占めている。
これらはすべて硫化銅であるから、どこかで精練しているはずで、我々は自覚していないかもしれないが、産出国では大きな問題になっているはずである。
電気エネルギーの使用によって、銅の消費量は増大している。
地球環境問題を考えたとき、化石燃料を使用するとCO2が多く排出されるから、代替エネルギーが必要だ、と言う。
しかし、ここで問題なのは、どんな原料で電気エネルギーをつくったにせよ、それをどうやって運ぶのか、ということだ。
現在の技術では銅線が主体であり、銅線を製造するために大量の銅が使われ、その銅を精錬するために、甚大な環境汚染を招いているという図式がある。
ここには、我々が自覚していないもう一つの重要な環境問題の背景がある。

今後、おそらく日本と同様に海外の銅資源も枯渇するであろう。
同時に、石炭採掘場で起きている、採掘後の現在に水がたまり強酸性を引き起こしているという環境問題、銅の採掘場も同様である。
これが一連の問題としてつながっているのだ。



6.おわりに

海外銅資源の枯渇に代表されるように、資源が本当に枯渇したらどうするのか。
銅資源の海外の可能採掘年数として39年という数字がある。
これは、埋蔵量を消費量で割った数字である。
発見量と消費量を比較してみると、確かに毎年鉱床は発見されてはいるが、発見量が消費量をはるかに上回っていれば、将来は問題はないわけだ。
しかし、現在のデータでは、発見量よりも消費量が上回っているのである。
これは遠からず資源は枯渇するということを意味している。
このことは、日本のように資源がない国にとっては、21世紀をどう生存していくのかと考えたとき、非常に重要な問題であろう。

いかに酸性雨問題は我々に身近な問題であるか、お分かりいただけたのではないか。
我々が享受している物質的な豊かさの背景にあるものについてさらに深く考え、将来を展望してみる必要があるのではないだろうか。



参考文献

佐竹研一(2000) 「酸性雨研究と環境試料分析」 愛智出版 p291
佐竹研一(1999) 「酸性環境の生態学」 愛智出版 p236
佐竹研一(1999) 「西岡秀三編:21世紀への挑戦
−地球環境研究の最前線、酸性雨問題−
広がる酸汚染と資源の消費」
古今書院 p304
佐竹研一(1999) 「環境汚染のタイムカプセル樹木入皮」 サイアス 12:60−01
佐竹研一(1998) 「酸性雨問題から見た環境汚染と資源の枯渇」 予防時報 195:14−19
 
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