講師紹介
森島 啓子氏
昭和33年東京大学農学部卒業後、国立遺伝研究所研究員室長助教授を経て、昭和59年より国立遺伝学研究所教授、平成10年定年退官。
1. 遺伝子の多様性とは何か
「生物の多様性」という言葉で、多くの人が思い浮かべるのは、「種の多様性」すなわち生物種の種類の豊富さ(簡単に表すには種の数)だろう。
普通に「種の多様性」という時には、種の内部の多様性は問題にしない。
しかし実際には、同じ種に属する生物でも、場所(集団)によって、あるいは同じ場所に住んでいても個体によってずいぶん違いがあることはよく知られている。
私たちが認識できるこうした自然界の変異は、環境の効果(同じ品種のナスでも肥沃な土地では大きくなる)と、遺伝的な効果
(違う品種のナスは大きさが違う)との総合された結果である。
一つの種の中で、地方集団や個体が示す遺伝的な差を「遺伝的多様性」という。
家畜や栽培植物の場合は、品種の差が、一つの種の内部に持つ遺伝的な差を示すので分かりやすいが、野生の動植物の場合は、環境と遺伝の影響を区別
するのは容易ではない。
しかし、同種のたくさんの個体が同じ環境で示す差は、だいたい遺伝的な原因(遺伝子によって決まる)と考えていいだろう。
遺伝子の乗っている染色体の数は生物の種によってそれぞれ決まっている。
どんな生物の個体もその身体をつくっている細胞の核の中に、種によって決まった数の染色体のセットを持ち、その上には様々な役割を持つたくさんの遺伝子が並んでいる。
「遺伝子の多様性」というのは、これらの遺伝子が多様という意味ではなく(一個体では遺伝子の多様性はない)、ある特定の遺伝子あるいはそれらの総体を、たくさんの個体で比べた時に生まれる概念である。染色体の上のある場所(遺伝子座)には、両親から伝わった二つの遺伝子(対立遺伝子)が乗っている。
「遺伝子の多様性」とは、この対立遺伝子をたくさんの個体や集団で比べた時に、その種類がどれくらい豊富かということである。
例えば、人のABO血液型の遺伝子などがそうである。
血液型のように遺伝子がはっきり分かっている時は「遺伝子多様性」ということができ、対立遺伝子の頻度をもとに多様性の程度を表す指数を求めることができる。
遺伝的な違いであることは分かっても、どんな遺伝子かが正確につかめない場合も多いので、一般
的には遺伝子の多様性も含めて「遺伝的多様性」ということが多い。
体の大きさや開花日のように生存に重要な性質や収量などの農業形質は、一つ二つの遺伝子で決まることは少なく、たくさんの遺伝子が関係している場合が多い。
こういう場合は、環境条件の差をできるだけ少なくして、一定条件下で育てた時の形質のばらつきを、「遺伝的多様性」の尺度として使う。
2. 何が「遺伝的多様性」の大きさを決めるのか
いろいろな要因が「遺伝的多様性」の大きさに関係する。
生物側の要因としては、第一に繁殖様式が重要である。
動物では一卵性双生児やクローンなどの例外を除けば、雄と雌による有性生殖が一般的で、両親の遺伝子を組み替えて持つ子供が分離する。
しかし、植物では多様な繁殖システムが発達していて、挿し木や球根で植える無性生殖の種では、遺伝的に完全に同じ個体がたくさんできるので、「遺伝的多様性」は少ない。
第二に、種や集団の成立の古さや歴史も関係する。
長い間には、突然変異によって遺伝子の多様性が蓄積するが、新しく分化した種や、少数の個体が処女地の島に移住して植えられた場合には、古い種や大陸の集団に比べて「遺伝的多様性」は小さいだろう。
外部からの要因も非常に重要である。
第一に個体数の減少が挙げられる。
最近、特に問題になっているように、生育地の破壊や環境悪化によって個体数が減少すると、偶然にある遺伝子を持った個体の割合が増え(遺伝的浮動)、その結果
、「遺伝的多様性」は減る。
また、環境条件のもたらす自然淘汰の働き方のパターンや強さも、「遺伝的多様性」の程度に大きく影響する。
一方向的な強い淘汰はそれに耐える個体だけを残し、その結果として、「遺伝的多様性」は減る。
強力な殺虫剤や除草剤を散布し続ければ、それに対して抵抗性の強い個体ばかりになる(散布前は、強い個体も弱い個体もいた)。
逆に多様な環境条件は、それぞれに適応する個体を残すことで、「遺伝的多様性」を維持するのに効果
がある。
多様な環境とは、いろいろな生態条件があったり、多くの共存生物種がいるということばかりではなく、時間的に環境条件が変動する(季節の差や年による変動)場合もある。
本来の自然環境とはこういう多様な世界でもある。
家畜や栽培植物では、人間の意識的な選抜が多様性の程度を大きく左右する。
自然界では淘汰されてしまう変わり者でも、人間にとって有用であれば拾いあげられ、用途に応じて多様な品種として作られた。
ところが、生産性、経済性が優先される近年の農業の現場は、少数の優良品種が広く飼育栽培される、いわゆるモノカルチャーへと動いている。
その結果、家畜や作物の種内の「遺伝的多様性」は、現在、非常に小さい。
品種の問題だけでなく、在来品種が使われていた時代には、一つの品種の中にも「遺伝的多様性」が含まれていた。
人々もそういう雑駁さを気にしなかった。
ところが、純粋性指向の強い現代は、変わり者はすぐ取り除かれる。
3.「遺伝的多様性」はなぜ大事か
長い間、大きな集団を保って生きてきた野生の動植物は、外観は同じように見えても、潜在的には違う遺伝子を持った個体の集まりである。
いいかえれば、「遺伝的多様性」が高いということである。
こういう集団は、環境が変化してもそれぞれに対応できる個体が中にいて、それらが、増減することで集団を存続させることができるダイナミックな存在である。
環境に応じて適応的に遺伝的変化を遂げながら(小進化)、集団そして種を存続させ、種の多様性維持に貢献する。
では、「遺伝的多様性」の少ない均一の集団ではどうだろうか。
現在、適応している環境が続く限りは安泰でも、いったん環境が変わると、それに対応できる個体が
いなくて絶滅する危険性が高い。
環境変動に対して、もろいといえよう。
また、遺伝的に似た個体ばかりになると必然的に近親交配が増え、そのために悪い性質を持った個体が生じて集団全体としては衰退してゆく。
近交弱勢と呼ばれるこの現象は、一つでは(ヘテロ)効果を表さず潜在している劣勢の遺伝子が、遺伝的に似た個体が交雑すると、それは二つそろって(ホモ)顕在化し、子供が死んだり悪い性質が現れたりすることである。
トキの例で明らかなように、一度個体数が激減した種は、それから保護して人工的に繁殖させようとしても手遅れなのである。
「遺伝的多様性」を失った種は、進化の袋小路に入ってしまうわけで、たとえ現在個体数が多くて繁殖を誇っているように見えても、実は絶滅の一歩手前にいることを忘れてはならない。
家畜や栽培植物のモノカルチャーも非常に危険である。
1960年代に国際イネ研究所によって育種された一連の優良品種は、それまで低収に甘んじていた熱帯稲作地帯に飛躍的な増収をもたらし、緑の革命と呼ばれた。
しかし、数年後に病害虫蔓延による大被害が続出し、単一品種を大面積に栽培することの危険性を私たちは学んだ。
病気や害虫に対する抵抗性の遺伝子は多様にあり、病原菌や虫の方もそれぞれ攻撃できる遺伝子を持っている。
多様な作物品種が栽培されていれば、病原菌や害虫の方も多様な遺伝子を持ったタイプが混在して、両者の間にあるバランスが保たれ、完全に被害を受けることはない。
しかし、菌や虫は変わり身が速いので、一つの品種が大面積に栽培されると、たちまちそれを攻撃できるタイプが増えて、大被害をもたらす。
例えば、動物の遺伝病には免疫系タンパクの遺伝子が関与している場合が多いが、その遺伝子の多様性を失った絶滅危惧種チータにウィールス病の感染が広がり、憂慮されているらしい。
4. いかにして遺伝的多様性を守るか
人間をとりまくさまざまな種の「遺伝的多様性」は、人類共通の遺伝資源であるという認識が高まり、その保存のために多くの系統保存施設やジーンバンクが設立されたのは1970年代である。
人間が管理しやすい家畜や栽培植物の場合は、施設内でその多様性を維持してゆくことはそれほど難しくない。
主な問題は、保存のためのコストに限りがあるという条件の下で、どんなセットを保存するか、である。
これに対して、野生あるいは半野生の動植物の「遺伝的多様性」を人為環境下で保存するのは、多くの問題がある。
繁殖を重ねる間に、人為環境には適応しにくい個体が、知らないうちに淘汰されてしまうからである。
このように施設内での保存の問題点と限界が明らかになって、自生地での保存の重要性がクローズアップされてきた。
この考えが提唱されて久しいが、実効性のある保存計画をたてるには、私たちの知識はあまりに少ない。
そこに生きる人達の社会経済的問題を考慮した上で、どの場所で保存するか、何ヶ所、どれくらいの広さの場所を保存するか、保存地の適切な管理とは、などを考える必要がある。
そのためには、「遺伝的多様性」が地理的にどんなパターンで分布しているか、対象とする生物種がどんな生活をしているかなどについて、的確に把握する必要がある。
自然の生態系は、人間も含めて、多様な種の共生によって成り立っている生物複合である。
多種共生という生物的環境の多様性が、種の内部の「遺伝的多様性」をも守ることになる。
そして、種内の「遺伝的多様性」は、種の存続を支え、種多様性の維持に貢献しているのである。
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