講師紹介
川那部 浩哉氏
1932年京都生まれ。
60年京大大学院理学研究科博士課程修了、理学博士。
同年京大に就職し、77年より京大理学部教授。
生態学研究センター設立に尽力し、91年設立とともに同センター長。なお、90年の国際生態学会議組織委員長などを歴任。96年停年退官。
同年滋賀県立琵琶湖博物館館長となり、現在に至る。
1.3つの生物多様性
「生物多様性」という言葉は、1992年の環境と開発に関する国連会議、すなわちいわゆる「地球サミット」において大きく取り上げられて以来、一般
にも頻繁に話題にのぼるようになってきた。
周知のとおり近年、地球上に生存している生物種がたいへんなスピードで絶滅し、このこと自体がきわめて重要な問題だからである。
以前は、種の多様性だけが論じられてきた。
いやむしろ、「種数多様性」のかたちで考えられてきた。
例を挙げよう。まず、2種で合計100本のところと、10種で100本のところと、どちらかが種数多様性は高いか。
これはいうまでもなく後者が高いと、誰もが考えるだろう。
それでは次に、10種1000本の植物が生育している2つの場所があったとする。
一方は、このうち991本が同じ種で、残りの9本が1本ずつ違う種類である。
これに対して他方は、どの10種も100本ずつだったとする。
この2つの種数多様性は同じだろうか。
たしかに種数は10種と、どちらも同じである。
しかし詳しく調べないかぎり、後者の方が種数が多く見えるのが、むしろ自然だろう。
すなわち「種数の多様性」は、いくつの種があるかと並んで、各種がどれくらいの比率で混じり合っているかが重要なのである。
ところで、現在における種の絶滅の速さはたいへんなもので、恐竜が絶滅した中世代末期に比べて4桁、地球の歴史のうえで最も絶滅速度の大きかった古世代末に比べても、3桁速いといわれる。
また、例えば熱帯雨林では、まだ名前が付いている種は数パーセントに以下に過ぎず、認知される前に絶滅していっている種も、かなり多いと聞く。
また「遺伝子の多様性」も重要である。
日本人が普通に食べる米についても、以前は野生のものを含め、たくさんの品種があったイネながら、短期間の環境に適応する品種改良のみを進めてきた結果
、かなりの程度に遺伝子が一様化してしまった。
その結果、環境の地域的・時間的変化に対して脆弱となっており、その遺伝子多様性を回復することが急務となっている。
自然界にあるさまざまな遺伝子、それの作り上げる物質を基に、新しい薬を開発している医薬品産業などを考えるだけでも、遺伝子多様性の喪失は、大変深刻な問題である。
そして、生物多様性にはもう1つ、「生態系の多様性」の問題がある。
2.さまざまな「関係の多様性」
「生態系の多様性」とは何だろうか。その本質を私は、「関係の多様性」だと考えている。
生物間の関係には、さまざまなものがある。
食う食われるの関係もあれば、同じものを食うものの間の関係もある。
棲み場についても、同じものもあれば、分け合う関係すなわち「棲み分け」もある。
ギフチョウとカンアオイ、ヒメギフチョウとフタバアオイとは、互いに密接に関係し合っているが、逆にギフチョウとヒメギフチョウは、棲み場でも食物でも重なるところがなく、直接には無関係だとされている。
しかし、全生物界を見渡したとき、このように1対1の関係になっていて、その間はきっぱり切れているなどという関係は、それほど多くない。
こっちが好きだけれど、別のを食ってもやっていけるというような、曖昧な関係多く、だからこそ競
争の結果食い分けたりもする。
同じ場所で同じものを食う動物は一般に、一方が勝ち他方が負けて、長期間共存することはできないとされ、競争的排除則(ガウゼの法則)と呼ばれていきた。
しかしここに、この2種をともに食う動物が共存するとどうなるか。
実は3種ともに共存する場合が多い。
2者間の関係は、第3者が存在するときとしないときでは、大きく変わることが近年数多く見つかってきた。
これを一般的に「間接作用」と呼んでいる。
生物の集まりである群集は、実はこのような「関係の総体」なのである。
いつも同じ例をだして申しわけないが、アフリカのタンガニイカ湖に棲む魚のあいだに、摂餌や繁殖をめぐって協同的な関係があることを、1979年に数人の同僚が発見した。
例えば、小魚を食べる魚がいる。
当然、攻撃される魚は逃げるから、攻撃する方はまた、さまざまな手を打つ。
狙っている魚を食べない別の魚の後から急襲するとか、藻食性の大型魚の横に隠れて近づくとか、などなどがある。
だがこのような方法を発明しても、狙った小魚を食べる確率は1割以下なのだ。
しかし他種の魚、すなわち異なった方法でその餌を獲る魚が、同時に近接して存在し、あるいは同時に狙うと、この確率は大きく跳ね上がる。
小魚にとって、違う攻撃のしかたに同時に対処することは、極めて難しいからである。
すなわち、同じものを食う他種の魚が存在するほうが、この場合は摂餌のために却って有利になるのだ。
一般論としていえば、ある相手が、常にいるほうが有利だとか、いないほうが有利だとか、一概に決めることは不可能なのであって、競争的協同あるいは協同的競争こそが、生物間の関係の一般
状態なのである。
オーストラリアに持ち込まれたヨーロッパアナウサギが、最近いろいろなところで餌不足の結果
、全滅し始めていると聞く。
この種は、オオカミやヤマネコなどの天敵に襲われても次世代が残るように、子供をたくさん生むやりかたをずっと採用してきた。
オーストラリアには現在、このウサギの天敵はほとんどいない。
しかし、進化の中で得て来た産児数を減らすことはできず、個体数が増え過ぎて、ついに餌が完全になくなり、その結果
全滅するのだという。
アナウサギにとって、オオカミは存在しない方が良いに決まっている。
しかし、このような天敵が存在しているという条件下で作られた性質は、すぐには変わらないものである。
短くとも数万年の時間が、この性質の変更には必要だろう。
生物の性質は、近過去から現在に至る関係の中で、作り上げられてきたものなのだ。
3.生物多様性の危機は、人間存在の危機/P>
生物多様性の重要性は、広くかつ深く、さまざまな面にわたっているが、ここではその中から、ただ1つだけを強調しておこう。 第1は、地球は開放系とはもはや見做せない、明らかに閉鎖系として扱わざるを得ない、ということである。 そして第4は、自然は「歴史」的産物だということである。 生物多様性を世界の「環境論者」と議論するとき、「人間中心主義」批判が大きくでてくることが、数年前にはよくあった。 生物は、まず平均値と標準偏差だけでは、考えることができない。 さらに、生物は長い歴史のなかで、絶滅をも経験してきた。 参考文献
それは、生物種の大量の絶滅、あるいは大きな変化が、歴史的に作り上げられてきた生物間の関係の総体を破壊し、そのことによって、私たちの生存基盤そのものを完全に失わせることだ。
これは個々の種や、遺伝子の喪失そのものよりも、いっそう全面的に恐ろしいことである。
数年前に私は、現在我々が直面している地球環境問題によって、科学哲学に、いや生きるための哲学一般
に対して、以下のような少なくとも4つの認識の変化を要請されていることを指摘した。
そして第2は、自然は従来の想像以上に、広く深く複雑に互いに関連しているという事実である。
振り返ってみれば、この2つの問題に大きい警鐘を与えてくれたのは、レイチェル=カーソンさんの『沈黙の春』だった。
そして、この第2の事実は、ただちに第3の問題を導く。
それは、人間の現在の科学・技術は、自然の一部しか理解できず、特に部分を解決することはできても
、複雑に絡み合った全体に対する「最適解」など、手探り以外には見つけようがないことが、明らかになってしまったことである。
科学は現在まで一般に、時間概念を取り落とすことによって発展してきたし、時間を扱うときでも、できるだけ瞬間の集まり、すなわち積分値として、またできるだけ可逆的なものとして、考えようとしてきた。
しかし、生物はもとより、物理的・化学的現象においても、自然界はそもそも、互いに共有する時間の中で、関係の総体によって成立してきたものなのである。
さらにいえば、人間の文化なるものはまさに、この自然の関係の総体の歴史的な姿を反映して、成立してきたものに他ならない。
「<未来の人類のため>の環境保護論などはもってのほかであって、他の生物あるいは地球そのものの存亡について論じるのでなければ、それは人間独善主義である。この点を曖昧にした議論は、原則的に
不毛である」とするものである。
私は、人間をいったん離れて考えることに内心賛成しつつも、長い時間を考察の対象とするならば、この点に関しては立場を越えて一致するのではないかと論じた。
一瞬でも、生存を完全に脅かすことが起これば、それでおしまいだからである。
それと同時に、その各々の性質は、地質学的な時間の中における関係の総体によって、作られてきたものである。
しかも生物種は、いったん絶滅すれば、短時間で新たに生ずるものでは絶対にあり得ない。
子や孫などの世代だけではなく、数千年、いや短くてもあと数十万年のあいだ、例えばヒトという種は、生存し続けることを考えるべきではないか。
その場合、「人間<だけ>が生きるために」も、他の生物は生き続けてもらわなければならないのではないのか。
それと同時に生物は、いろいろな関係を作りながら、その中で新しい生物を作り上げてきたのである。
人間が生物多様性をほんとうに保全するというのならば、現在存在する種や遺伝子を守るだけでは、一面
的なものに過ぎない。
関係の総体自体が新しい遺伝子を、そして種を作り上げ、彼ら生物多様性を増大させてくれるように、その手助けをしなければならないのではないか。
地球誕生以来、1種でこのように大きい生物体量を保持した生物は存在しないし、影響という点でいえば、さらに著しい超優占種である。
その責任においても、このように、自然の長い時間をかけての働きの手助けをするぐらいのことは、すべきことではないのか。
これこそが、本当の意味での生物多様性の保全なのではないか、と。
著者
発行年
タイトル
発行
川那部浩哉
1996
曖昧の生態学
農山漁村文化協会
東京
川那部浩哉
1996
生物界における共生と多様性
人文書院 京都
川那部浩哉
1996
科学にとって地球環境問題とは何か
創造の世界 100:95ー103
川那部浩哉
1997
生物界における一と(二と)多.
モルフォロギア:ゲーテと自然科学 19:2ー11
川那部浩哉
1997
生物界にみる関係性と多様性
日本ファジー学会誌 9:817ー825
川那部浩哉・
川端善一郎1998
「食う・食われる」生きものたち
『生命の地球:心の生まれた世界(沼田真・河合雅雄・日高敏隆・濱田隆士・松井孝典編)』,185ー215 三友社出版 東京
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