森田 三郎氏
講師紹介
森田 三郎氏
1945年千葉県生まれ。埋め立てが予定されていた谷津干潟のごみ拾いを一人で行い、自然保護運動を広めるために1987年市議に、1999年千葉県議に当選。現在、タクシー運転士をしながら、谷津干潟の自然保護に奔走している。千葉県議会議員、谷津干潟愛護研究会代表。森田三郎タクシー経営。


1. 本文


私は、昭和20年千葉県船橋市に生まれた。私にとって、谷津干潟は、子供の頃の大切な遊び場だった。昭和49年11月頃、当時働いていた新聞販売店で「埋められていく谷津干潟」という新聞記事が目にとまった。しばらくその写真記事を見ていて、干潟の杭の並び方から、自分が子供の頃遊んだ場所だとわかった。すぐに、そこに行ってみた。
そのときすでに干潟の周囲は、埋められていた。東京湾岸道路、東関東自動車道が干潟を横断するという計画が実行されつつあったのだ。干潟の約40ヘクタール部分だけが、国有地だったために開発されずにいた。
さらに谷津干潟は、ごみ捨て場になっていた。漁業権は放棄され、そこには毎日のようにごみが捨てられていた。下水も流れ込んでいた。いろいろな業種のごみ、屠殺業者による牛や豚の骨、農家や漁師の残りのもの、ふとん、バイク、自転車、犬猫の死体。それらがヘドロの中で泣いているようだった。
昭和50年、習志野市は谷津干潟の生態調査をしたが、その結果は、干潟はまもなく死滅するだろうという内容だった。市長さんは、「谷津干潟は、習志野市の恥だ」と言っていた。

私は、まず一人で「谷津愛護研究会」をつくった。私は市役所の課長さんのところに行って干潟を残してほしいと頼んだが、ぜんぶ断わられた。当時私は市川市で新聞配達をしていた。そこで私は、市川市からバイクに乗って、ごみ拾いに通い始めた。まさか、自分が腰の高さまである泡状のヘドロの中に浸かってまでごみを拾うとは思っていなかった。実際に一人でごみを拾ってみると、恥ずかしかった。散歩の人や、バードウオッチングする人が通ると拾えない。人が通り過ぎると拾う。人が来るとやめる。
なぜか人の目が気になる。私は、私がごみ拾いをしたい気持ちよりも、人がそういう自分を見ていることを気にしている自分がわかってきた。そしてだんだん人の目を気にしないようにしようとした。心のなかで葛藤した。
ヘドロの匂いはすさまじい。その匂いは身体にこびりついた。臭くて汚いから埋めろ。実際にそうかもしれない。でも、ヘドロの下には、ガキ大将の頃に遊んだ砂地がある。貝やカニがいる。そう思うと、ごみを拾わないわけにはいかない。
しかし、私が拾っても、あいかわらず横でごみを捨てる人はいる。私が拾ったごみは回収してもらえない。私は拾ったごみに火をつけて燃やした。
くずかごを置いても、看板を立てても、次の日にはごみが叩きこまれている。
谷津を埋め立てるという土地利用計画があるわけだから、私ひとりのごみ拾いには、説得力はない。そこで私は、私自身が看板になろうと考えた。私は谷津干潟の近くに引っ越してきた。新聞配達もやめた。そのとき、ごみを拾いを始めて、8年たっていた。

ごみを捨てる人も、わざと汚くしてやろうという気持ちで捨てているのではないだろう。手軽で便利だっただけなのだろう。ごみを捨てる人も、家に帰ればいいおかあさんやおとうさんだろう。だから、ごみを捨てさせないということがじつに難しいということを、私は実感した。
私は、雨の日や風の日にごみ拾いを続け、住民や行政とぶつかって孤立していった。自然保護団体は引いてしまっていた。ヘドロの中でごみを拾っている私を指さして、「勉強しないとああいう仕事しかできなくなるんだよ」と子供に言う母親もいた。
私はとにかくこの挑戦に勝たなくてはならないと思っていた。だから続けなくてはいけない。谷津遊園地にいる動物たちのいびきを聞きながら、夜中の12時に看板を立てにいく。お墓での肝試しよりずっと怖かった。
やがて、「自分たちが近くに住んでいるこの場所を汚くしているのは良くないから、昼間だけでも手伝いましょう」と言って手伝ってくれる主婦の方が現れた。そうして、3、4人の方たちが手伝ってくれた。おかげで、それまで私が呼ばれてきた「きちがい、変人の森田」に対する評価が変わっていった。こうして協力者が出てきてくれたことに、私は感謝の気持ちでいっぱいだった。しかし、あいかわらずごみは捨てられていた。

私は考えた。谷津干潟の周囲は約4キロ。昼間、一番目立つところで、クリーン作戦を行うことにしたのだ。約100メートルの部分だけを徹底的にきれいにした。近所の人が心配してくれて、破傷風の注射を打ってくれた。いろいろな方々が協力し始めてくれて、すこしずつではあるが、だんだん干潟がきれいになってきた。ビニールや鉄板、タイヤ、ヘドロは泡状。しかし、何週間かすると臭いがしなくなってくる。次第に貝やカニ、ゴカイが現れてくる。
私は、彼らが「ありがとう、ありがとう」と言ってくれているような気がした。やれば、すこしずつきれいになっていく。私は、これしかないと思った。
干潟がきれいになり始めると、次第に、ごみの投げ捨てが止まっていった。
私はやればできるんだということを実感した。できないということはない、不可能なことはない。習志野市民でもない自分、そして主婦の方が協力してくれて、ごみの投げ捨てを止めることができたということ。

ごみ拾いを続け、ごみの投げ捨てが止まったら、世論とあいまって、世の中では環境が取り上げられるようになった。
私は、「日本の社会情勢は環境にシフトしていくだろう。谷津干潟を埋め立てさせないために、10、20、30年頑張ろう。前進しなくてもいい、後退しなければいい。」という思いでやってきた。
昭和62年、最後の仕上げは自分でやったらという仲間からの応援を受けて、統一地方選挙に出た。谷津干潟保存を主張し、習志野市議会選に立候補したのだ。挨拶まわりや電話、自然保護団体への挨拶、何もかも自分一人でやった。ウグイス嬢もいない。演説のために25万キロは走っただろう。結果、2位に大差をつけてのトップ当選だった。嬉しかった。これでやっと市民権を得たと思った。
その後、干潟は日本有数の水鳥の宝庫となり、昭和63年、国設鳥獣保護区に指定された。平成10年には、ラムサール条約に登録した。

私は、いまの谷津干潟の姿を目的として活動してきたわけではない。私にとって、ごみ拾いは手段でしかない。もし仮に、昭和49年当時に戻り、またごみ拾いをするのかと尋ねられたとしたら、私はまた、「私のふるさとである谷津干潟のごみを拾う」と答えるだろう。私は15、6年前にボランティアという考えはやめている。私のごみ拾いは、ボランティア活動や環境保護運動ではない。私の日常生活の一部なのである。
皆さんは、何一つ自分のものになるわけでもないのに、それでも残したい、悪口を言われても行政と戦ってでも残したいというような、涙がこみ上げてくるような「ふるさと」をお持ちだろうか。
私は、この28年間、私のふるさとである谷津干潟の生き物たちの命を想い、行動してきただけである。




2. 参考資料


谷津干潟友の会のホームページ

森田三郎氏関連図書
書名
著者
出版社
どろんこサブウ 松下竜一
講談社
1990年
わが青春の谷津干潟 本田カヨ子
ろん書房
1993年
埋もれた楽園 三枝義浩
講談社
1993年
たった一人が世界を変える 轡田隆史
同朋社
1998年
干潟の四季 森田三郎
ふかんど出版
1999年


 
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