原田正純氏
講師紹介
原田 正純氏
熊本学園大学社会福祉学部教授。昭和9年鹿児島県生まれ。熊本大学医学部、同大学大学院博士課程修了。水俣病、三池炭坑炭塵爆発、カネミ油症、中国・カナダの水俣病など幅広く調査、研究。平成6年グローバル500賞受賞。熊本大学医学部付属遺伝発生医学研究施設助教授を平成11年3月退官後、平成11年4月より現職。


1. 水俣病発生とその背景


1956年(昭和31年)春、水俣市の漁村、月浦地区に住む5歳の女児に、手足の運動障害、言語障害、歩行障害などの症状が現れ、チッソの付属病院に入院した。
同時に、3歳のその子の妹、また隣家の女児も同様の症状で発病していることが分かり、医師たちは、同年5月1日、水俣保健所に届け出を行った。
この日が水俣病正式発見の日である。
現在、5月1日は「水俣デー」ということで、水俣では様々な行事を行っている。
水俣病はたくさんの小児患者の発病によって発見された。
このことは、環境汚染によって人の健康に被害がでる場合には、最初にその被害を受けるのは、その地域の子供や、老人、胎児や病人など、生理的に弱い人々であることをあらわしている。
届け出の後、医師会、市立病院、チッソ付属病院、保健所などが協力して直ちに原因究明に乗り出した。
そして、患者は、これより以前1954年(昭和29年)にはすでに発生しており、小児だけでなく成人も発病していることが明らかになった。
また、多くの患者の家は海の近くにあって、海とは切っても切れないような生活のつながりを持っていた。
それは、環境汚染による被害は、自然の中で、自然と共に生きている人たちが最初に受けることを物語っている。

原因究明のために、同年(1956年)8月、熊本大学医学部に研究班が組織された。
その結果、新しい事実がいくつか明らかになった。
    ・ 患者は水俣湾沿岸の農漁村地区に限られて発生、漁家が多く、年齢、性別に無関係。
    ・ 伝染性の傾向はなかったこと。
    ・ 患者は水俣湾産の魚介類を多食しており、漁獲の変動と患者の発生と関係があること、など。

また、患者多発地区ではネコが同様の症状で多発斃死していたこと、何らかの中毒であることが明らかになった。
環境汚染による中毒であるとすれば、水俣湾には当時日本で有数の化学工場であったチッソ水俣工場の廃水口があり、そこからはたくさんの廃水が流されていたことが考えられる。
当時、漁師たちはわざわざ廃水路のところに船をつないだ。船底に舟虫(貝やフジツボなど)がつかないということであったが、これは水銀の消毒液につけておくようなものであったからであろう。
廃水の中の何が原因物質か、なかなか明らかにならなかった。
実際、原因究明の一番近いところにいたのは、工場内の化学者、技術者であった。
もし、このとき化学者や技術者が原因究明のために協力していたら、水俣病の歴史は変わっていたかもしれない。
そして、協力することが会社の利益にもなったはずである。
隠そうとしたことが、かえって被害を膨大なものにしていったのである。

熊本大学医学部は工場内に関してはまったくの素人であった。
外堀からせめていくようなまわりくどい調査と研究を重ね、一つ一つ検証していき、ようやくイギリスでメチル水銀を使っている農薬工場の労働者たちが中毒になったという1940年の報告と、水俣病の症状や病理所見とが一致することを見出した。
結局、こうして原因物質を特定するのに3年もかかり、この3年の間に被害は拡大していった。
1959年(昭和34年)、水俣病の原因は有機水銀中毒であるとの報告書を厚生省に提出した熊本大学医学部の研究班は、翌日解散させられる。
解散させられた名目は、「このような重大な問題は国家的問題であるので、国家レベルで研究班を再編する」というものであったが、結局編成された研究班は何もしないで解散している。

また、原因が分かった後も工場は廃水処理も行わず生産を急増させていった。
チッソは原因を認めたわけではなく、その後さまざまな形で反論するのである。
1959年(昭和34年)12月にはチッソと患者との間に見舞金契約が成立した。
一種の補償協定であるが非常に低額であった。
同時にチッソは患者から「将来、水俣病の原因が工場廃水と分かった場合にも、新たな補償金の要求は一切行わないものとする」という契約書をとった。
こうして原因の確定と対策をずるずると引き伸ばすことにより、被害はさらに拡大していったのである。



2. 新潟水俣病(第二水俣病)


水俣病の原因が明らかになってから6年もたって、新たに新潟で第二水俣病が発生する。
1965年(昭和40年)、新潟県阿賀野川流域における昭和電工工場廃水における有機水銀中毒である。
チッソと同じアセトアルデヒド工場から、同じようにメチル水銀が流されていた。
湾と違って川は水量が多く流れも速いので、起こりえないと思っていたのだろうか。
しかし、有機水銀は、川をさかのぼる魚の中に蓄積されていったのである。
水俣病にかかわった人間として、あれほど苦労して原因究明していただけに、水俣病の教訓は社会に活かされていると思い、当時第二の水俣病が発生したことは非常にショックであった。
しかし、新潟では水俣のように原因究明に時間がかからなかった。
住民に対する健康調査に重点がおかれ、頭髪の水銀値調査による結果を根拠に水俣病の診断がなされた。
不幸なことであるが新潟では妊娠規制が行われ、その結果、胎児性水俣病とされたのは1人だけであった。
新潟では、水俣病の典型重症例に限定されることなく比較的幅広く捉え、この捉え方は後に第一の水俣病の見直しにもつながった。
新潟では、1997年1月現在、690人が正式に認定されている。
水俣よりも対策が進んだようにみえた新潟でも、認定申請を行ったにもかかわらず棄却された患者は1300人程いて、第二次訴訟が起き、公害の解決を完璧に行うことがいかに難しいかがうかがえる。



3. 水俣病のその後


1954年(昭和31年)に水俣病が発見され、1959年(昭和34年)に原因が究明された。
究明された後、患者の発生は減っていった。
1960年(昭和35年)水俣病は終わったかのようにみえた。
しかし実は、急性の劇症の患者の発生がなくなったということでしかなかった。
急性劇症患者が減ったのは、チッソが何らかの安全対策を行ったからではない。
魚介類が危ないと聞いて、住民や漁民が水俣近海の魚介類を食べなかったから、減ったのである。
新潟で、第二の水俣病が起こり、頭髪水銀値の測定を行い新たな患者が見つかったことから、水俣病が慢性的に進行することが分かった。
水俣でもずっと頭髪水銀値や健康の追跡調査を行っていれば、汚染が持続していたことも患者がまだ出ていたことも分かったはずである。

1968年(昭和43年)厚生省は水俣病を正式に公害病と認定した。
発見されてから12年、原因が明らかになってから9年もたった遅い認定であった。
これを契機に今まで沈黙していた患者が、当時の公害反対運動の風を受けて行動を起こし始めた。すなわち訴訟である。
一次から三次訴訟まで原告は2000人を超えた。
結局、この訴訟の解決には27年もの歳月を要し、関西水俣病訴訟(大阪地裁)を除いて、1996年(平成8年)最終的に和解調停で決着をみるのである。しかし、これは解決したというものではなく一つの新しい時代がきたということだろう。

水俣病の責任は大きく三つあげられる。
◆発生責任。
    まず発生を防止する責任があった。
◆被害の拡大責任。
    発生した後、ただちに被害を最小限に食い止める責任があった。
◆救済責任。
    できるだけ迅速にかつ十分な救済をする責任が加害者にはあった。

このうち、行政の主な責任は拡大責任と救済責任であると考えられたが、判決結果は二つに分かれた。熊本、京都地裁は行政の責任を認めたが、東京、大阪地裁は認めなかった。また、水俣病かどうかの認定については、すべての地裁判決が、棄却された患者の65〜100%が水俣病に相当するとして損害賠償請求を認めた。行政側は控訴して争ったために、このように長期化したのである。
1996年(平成8年)の和解では一応の救済の対象となった患者数は14.000人を超える。これらの患者の大部分はメチル水銀の影響を受けたものと考えられるが、和解案では明快に水俣病と断定していない。これは医学的に「最もミニマムな水俣病とは何か」という問題が、「どこまで補償金を払うか」という問題にすり替えられたからである。行政の責任も曖昧なままである。こうして延々20年以上に続けられた裁判が、このような形で結論をみいださなければならないことは非常に不幸なことであろう。
(なお、1996年の和解調停を拒否しあくまで高裁の判断を求めた関西訴訟では、2001年4月大阪高裁での控訴審判決で、国・熊本県の行政責任と、原告の多くを水俣病(メチル水銀中毒)患者と認める内容で原告勝訴したが、国と県は最高裁に上告した。)



4. 水俣病が教えているもの


水俣病は環境汚染によって食物連鎖を通して起きた。
人間が自然に対して畏敬の念を失いごう慢になったとき、水俣病が起こったのである。
また、食物連鎖を通じて起こったこのような病気の発見は世界で最初であった。
ゆえに水俣病は公害病の原点といわれるのである。
世界中に衝撃を与え、このように大規模かつ重大な被害を及ぼし、これほどメカニズムが明らかになった公害病は水俣病の前にはなかった。
水俣病は、私たちにいろいろな教訓を与えている。
水銀中毒だけでなくほかの化学物質にもこのメカニズムはあてはまるであろう。
また水俣病の特徴は、それが胎児にまで及んだということである。

人工的なものとか、自然界に稀にしか存在しない化学物質に対して生体は無防備である。
元々自然界の中にあったものに対しては、生物の長い歴史の中で生命体の維持という機能を獲得してきたが、何万年もの生物の歴史のなかで、人間がこれほど多種の化学物質を作りだしたのは、まだここ100年程度である。
確かにこの100年の間に私たちの生活は便利になったし、豊かにもなった。
しかしその一方で、何万年の生物の歴史を無視するような化学物質という異物が体内に入ってきたときに、どう処理していいのか遺伝子は分からないのである。
化学物質に対して生体がどのような影響を被るのか分からないということを胎児性水俣病は教えている。
水俣病の発生後もPCB、ダイオキシン、サリドマイド等、胎児の大量障害は繰り返し起きているが、いみじくも水俣病はこれらのことを暗示していたのである。



5. 水俣から世界へ


地球規模でみると、水銀汚染問題は決して終わってはいない。
中国の松花江ではアセトアルデヒド工場が汚染源として水銀汚染事件が起こり、患者は軽症の水俣病と診断された。
カナダ・インディアン居留区では水俣病と大変似た症例が見つかったが、州政府は古典的な診断基準をあてはめて、水俣病を否定している。
このほか、苛性ソーダ工場が汚染源でおこったベネズエラ、ブラジル、タイ、インドネシアや、金採掘の鉱山で起こったブラジル・アマゾン川流域、タンザニア、フィリピンなど、世界各地で水銀汚染事件が起こっている。
患者がまだ発見されていないところでも猶予できない状況となっている。

世界中の誰が見ても文句のないような水俣病が発生したときには、もう手後れなはずである。
そういう意味でも、日本がきちんと水俣病の病像の問題を解決しなければ、世界各地での被害を食い止めることにはならないだろう。
水俣病の教訓は生かさなくてはならない。



参考文献

タイトル著者出版
「水俣病」原田正純岩波新書
「水俣病は終わっていない」原田正純岩波新書
「水俣、もう一つのカルテ」原田正純新曜社
「水俣病と世界の水銀汚染」原田正純実教出版
「胎児からのメッセージ、水俣、ヒロシマ、ベトナム」原田正純実教出版
「水俣が映す世界」原田正純日本評論社
「水俣病と法」富樫貞夫石風社
「水俣病の悲劇を繰り返さないために」橋本道夫編中央法規
「水俣病事件40年」宮澤信雄葦書房
「水俣病の科学」西村豊
岡本達朗
日本評論社


 
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