講師紹介
畠山 武道氏
昭和19年北海道生まれ。
北海道大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。
立教大学教授を経て、現在、北海道大学法学部教授。
専門は、行政法、環境法、特にアメリカ環境法
1.日本の自然保護法・自然保護行政
日本の環境問題は、公害問題から出発し、自然保護や地球環境問題が本格的に論議されるようになったのは、ごく最近のことである。
特に戦後は、四大公害訴訟に代表されるように、大気汚染、水質汚濁、騒音などの公害問題が頻発し、行政もその対応に追われてきた。
その結果、短期間に公害問題を克服するために、行政(権力)が介入し、権力的、強制的、画一的に産業活動を規制する方法が主流となったのである。
幅広い意見を集めて合意を形成する手続きや住民参加は、発達する余地がなかった。
【参考】
東京オリンピックのころ、栃木県知事が国道を拡幅するために、東照宮の神木である太郎杉を土地収用法により収用し、伐採する計画をたてたので、東照宮が原告となって裁判をおこした(日光太郎杉事件)。 昭和44年4月、宇都宮地裁では、原告勝訴とした。 昭和48年7月東京高裁でも原告側勝訴となっている。 じつは、日本では数多くある自然保護に関する行政訴訟の中で、原告(自然保護側)が勝訴したのはたった2件しかなく、日光太郎杉事件はこのうちの1件である。 (もう1件は昭和46年7月大分地裁と昭和48年10月福岡高裁で住民が勝訴した臼杵市の「風成訴訟」) 原告敗訴の理由は、提訴する資格がない(原告適格)等の門前払いによるものがほとんどである。 |
2.アメリカの自然保護運動とそれに伴う司法制度の歴史
アメリカ合衆国の環境保護は、自然保護から出発し、1900年代、1930年代、1960年代に大きな飛躍をとげてきたが、例えば国立公園の指定をみても、その背後に常に市民運動や議会への粘り強い働きかけがあったことが分かる。
また、アメリカの自然保護行政の特色は、連邦よりは州が、中央官庁より現地の管理事務所が大きな権限を有していることである。
しかし、裁判制度は、大きな変化をみせなかった。
その結果、連邦環境法の大部分に「市民条項」といわれる条文がおかれ、行政機関の決定に不満のある者は、誰でも裁判を起こせることになった。
日本では、最近、動物や自然を原告にした裁判が提訴されているが、アメリカでは、住民や環境保護団体に裁判を起こす資格を広く認めることによって、実質的には、同じ効果が得られていることに注意しなければならない。
1973年、環境団体が皆伐の禁止を求める裁判を起こした。
森林局の威信をさらに傷つける大事件が発生した。
また、時期を前後して、地球規模の環境保全を目的に、森林局の内部でも、伝統的な森林管理法を、生態的視点を取りいれた新しい持続可能な施業方法に転換すべきだという主張が強くなされるようになった。
特に、国立公園、国有林、野生生物保護区の管理では、大幅な権限分散方式がとられている。
その結果、現地事務所では、管理計画策定などにあたり、地元の意向や住民の意見を聞かざるを得なかったという背景がある。
【参考:原生林の開発(オールドグロース)】
1630年頃から東部から始まった原生林の開発は、1850年頃には西部まで進み、1980年頃にはほとんど消滅した。
現在、原生林はワシントン州、オレゴン州あたりにしか残っていない。
ヘンリー.D.ソローは著書「メインの森」(1864年)の中で「人間が単なる骨でないのと同じように、森は単なる木材ではない。」と述べ、乱伐による森林破壊に対して怒りを表明した。
しかし、公害問題が本格的に論議されるようになったのは、1960年代になってからである。
この時期、環境保護運動は、ベトナム反戦運動、公民権運動と連動し、環境保護団体は一大勢力となった。
さらに1980年代になると、有害廃棄物問題などを中心に公害反対運動が高まってくるが、その中で、政府や大規模環境団体の関心が、原生自然や野生生物保護にかたより、低所得者やマイノリティを軽視しているという批判が高まった。
そのため、政府の環境政策の恩恵を、すべての人に及ぼすべきだとする「環境正義」が主張されるようになった。
「環境正義」をめぐる論争は今日も続いている。
特に1970年施行の連邦環境施策法は、世界で初めて環境影響評価を取り入れた法律で、環境行政への住民参加を飛躍的に拡大させる引き金になった。
1973年の「絶滅のおそれのある種の法」も、当時から「世界で最も進んだ野生生物保護法」といわれ、その後の政府の自然保護政策に大きな影響を与えることになった。
古くさい法理論、厳格な訴訟要件、住民に不利な立証責任、高額な費用などが、司法的な救済を妨げ、裁判所は住民に対して門を閉ざしつづけたのである。
そこで、弁護士・法曹の中から、こうした環境問題に対処できない裁判は住民の不満を増幅し、ひいては司法そのものへの不信を招くとの危機感が高まり、全国で裁判制度の改革が試みられたのである。
また、州レベルでは、各地で環境保護法といわれる法律が制定され(代表例として、ミシガン、ミネソタ州)、環境権の明示、出訴要件の大幅緩和、立証責任の被告側への転換、訴訟費用の免除などが定められた。
この点は、日本で環境権論が実を結ばなかったのと比べ、大きな違いである。
環境問題(や消費者問題)を通して、裁判所の門戸が市民に大きく開かれ、このことが後の環境政策に大きな影響を与えることになった。
【参考】
1969年ウォルト・デイズニー社は、セコイア国立公園に囲まれたミネラルキング国有林に、巨大なスキーリゾートをつくる計画を発表した。80エーカーに及ぶ開発である。
電線などが国立公園の中を通るということで、自然保護団体であるシエラクラブは、内務長官を相手に裁判を起こした。
シエラクラブは提訴理由にあえて自分達の利益のために訴えるのではなく、あくまで自然に頼まれて訴えたと主張した。
連邦高裁ではこれでは原告適格がないとして敗訴した。
南カリフォルニア大学哲学科教授のスートン博士はシエラクラブを援護する論文を発表した。
自然や動物そのものにも裁判を起こす資格があるのではないかという内容である。
1972年の最高裁判決は、シエラクラブがほんの少しでも自己の利益を主張すれば訴えの資格を認めるのだが…として、結局、原告適格を認めなかった。
しかし、自然にも権利を認めるべきだと認めた少数の裁判官もいて、反響をよんだ。
(ただし、この二つの官庁は、今日も自然資源を管轄する役所の中で、最も高い評価を維持している)
森林局は、戦後、増大する木材需要に応じて伐採量を増大させたが、特に大規模な皆伐によって景観や野生生物の生息地を大きく侵食したことから、市民や環境保護団体からの不満が高まった。
これは全国に広がった皆伐を中止させるためのテストケースであった。
ところが、裁判所(連邦地方裁判所)が原告の主張を認め、皆伐禁止を命じたために、森林局はパニック状態に陥った。
そこで、急遽対策が練られ、皆伐を条件付きで認めるとともに、森林局の政策決定に大幅な住民参加を認める法案を議会に提出した。
こうして成立したのが、1976年の国有林管理法である。
国有林管理法は、森林管理計画策定の際の環境影響評価と住民参加を詳細に定めた法律である。
その後は、膨大な手間をかけて、各地で森林計画の策定がなされている。
それが、オレゴン・ワシントン州の原生林(オールドグロース)におけるニシヨコジマフクロウ保護をめぐる問題である。
この事件の本当の原因は、世界最大といわれる温帯雨林の大規模伐採問題であり、フクロウは真の主役ではなかった。
しかし、運動が手詰まりになった環境保護団体が、世界で最も厳しいといわれる「絶滅のおそれのある種の法」を武器に、フクロウの生息を脅かす森林伐採の中止を求めて、裁判を提起したのである。
他方、こうした状況に対応するために、1989年、連邦省庁を横断的に結ぶ検討調査組織が作られた。
それが、森林局の生物学者でフクロウ研究の権威といわれたトーマス博士を座長とする「ニシヨコジマフクロウの科学的で信頼できる保全戦略」を検討するための省庁間科学委員会である。
このトーマス委員会は、当時の生態学的知見や保全生物学の意見をいれ、画期的といわれる報告書を2年後に公表した(トーマス博士は、後に森林局長官に就任したが、短期間で辞任した)。
これが新林学といわれる考えである(フランクリン、サルワサーなど)。
フクロウ論争は、保全生物学や新林学の発達を促す火付け役となったのである。
生態学管理原則は、今日、公式の国有林管理方針とされている。
【参考:フクロウ論争のその後】
1993年6月、クリントン大統領は、@1000万haの国有地の中に原生自然地域、河畔林保護区などを設け、木材生産林は22%に制限する、A伐採量
を1980年代の4分の1に減らす代わりに、12億ドルの地域振興基金を設ける、B関係する省庁、州機関、住民・先住民の連携を進めるという内容の案を示し、論争はようやく鎮静化した。
3.生態系を考慮した意思決定のありかた
以上、アメリカにおける森林局の動きを中心に説明したが、同じ頃、同じ太平洋北西地域におけるサケの保護、エバーグレーズ、イエローストーン、グランドキャニオンなどの国立公園の管理をめぐり、地域の生態系を保護するために、旧来とは異なるより科学的で広域的な資源保護対策が必要だという声が高まった。
こうした動きをうけて、今日のアメリカでは、自然保護や自然資源の管理に生態的な視点を取りいれ、地域の生物多様性そのものを保護しようとする考え(生態系管理)が、主流となっており、森林、河川、海岸、牧草地、野生生物保護などで、さまざまの実験が試みられている。
特にダムを撤去し、河川生態系を取り戻す試み、コロラド川グレンキャニオンダムにおける大規模放流実験、絶滅に瀕したオオカミを国立公園に再導入しようとする試みは、われわれの興味を引く。
また、こうした動きは、生物共同体を構成するすべてのものに平等に生存する権利を認め、生物共同体全体の健全性の維持を主張したアルド・レオポルドの環境哲学にも根底でつながるものである。
このような生態系管理の考え方は、今後の環境行政に以下のような影響を与えるだろう。
第1に、これまでの環境行政、自然保護行政を、長期的広域的な観点から再検討することである。
第2に、自然保護行政の範囲を、河川、森林、農地、湿地、海岸などを含め広くとることである。
第3に、バラバラな縦割り行政を改め、複数の市町村や官庁が参加する協議機関を設けなければならない。
アメリカではこうした組織作りが進んでいるが、縄張り意識の強い日本の官庁では、こうした連携組織作りが最も苦手であろう。
第4に、行政と科学者との本格的な協力が必要になる。
今後の環境行政は、法律の形式的適用ではなく、生態系へのより一歩進んだ理解を得るために、科学者と連携しなければならない。
第5は、情報・予測における不確実や未知を認めることである。
第6は、住民参加の必要性である。
人間も生態系の一部で、地域の実態に応じた人間活動(私権)の規制が必要である。
同時に、生態系管理は人間活動の規制だけではなく、資源の持続的利用、景観レクリエーションなどのアメニティーの向上にも貢献する。
そのためにも生態系管理には、住民参加が不可欠なのである。
生態系管理の試みは始まったばかりであるが、今後の成果に注目したい。
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