講師紹介
加藤 尚武氏
1937年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。
千葉大学教授などを経て現在、京都大学大学院・文学研究科教授。
科学技術庁 生命科学審議会専門委員。
専門は哲学・倫理学
1.はじめに
西洋の思想は、キリスト教的天人分離、デカルト的心身二元論、主観的精神と客観的自然の対立、原子論的要素主義であるから、そこから生まれた文化は自然破壊を引き起こすが、東洋の思想は、天人一体、心身一元論、主観客観・精神自然の総合、有機的総体主義であるから、自然保護に適合しているという観念がさまざまに語られている。
日本では、このような東西思想の対立図式は明治時代に井上哲次郎、井上円了という二人の哲学者に
よって生みだされ、西田幾多郎とその影響を受けた人々によって引き継がれ、「近代の超克」という標語に集約されて、帝国主義的ファシズムの哲学的背景を形づくった。
環境問題の浮上と、ハイデガー、デリダの影響を受けた構造主義の登場とともに、同じ「近代の超克」観念がふたたび再評価を受けようとしている。
西洋にも天地呼応の思想が存在した。
天と地は異なる素材からできているが、天の火星は人の血液と呼応し、天の土星は人の胆汁と呼応するという思想が西洋自然哲学の土台をなしていた。
その基礎原理となった「天は大宇宙、人は小宇宙」という観念は東洋にも見られる。
ガリレオ、デカルト、ニュートンの近代科学は天と地は同一の素材からできているために同一の法則に従うという観念であって、これも一種の天地一体の思想である。
したがって、西洋思想はすべて天人分離という原理の上になりたつという判断は根底から誤っている。
2.朱子学と自然保護
熊沢蕃山(1619~1691)は次の問いを掲げている。
「山川は国の本なり。 近年、山荒れ、川浅くなれり。 これ国の大荒なり。 昔よりかくのごとくなれば、乱世となり、百年も二百年も戦国にて人多く死し、その上、軍兵の扶持米難儀すれば、奢るべき力
もなく、材木、薪をとること格別少なく、堂寺を作ることもならざる間に、山々もとのごとく茂り、川々深くなるといへり。
乱世をまたず、政にて山茂り川深くなることあらんか。」
(熊沢蕃山『大学或問』、日本思想体系、岩波書店、30巻、432頁)
「万物一体と言ひ、草木国土悉皆成仏と言うときは、同じ道理のように聞こえ候」という質問に、蕃山はこう答える。
「万物一体とは、天地万物みな大虚の一気より生じたるものなるゆえに、仁者は一木一草をも、その時なく、その理なくては切らず候。
いわんや飛潜動走のもの[鳥獣虫魚]おや。 草木にても強き日照りなどにしぼむを見ては、我が心もしほるるごとし。
雨露の恵みを得て青やかに栄えぬるのを見ては、我が心も喜ばし。
これ万物一体のしるしなり。」
(熊沢蕃山『集義和書』、日本思想体系、岩波書店、30巻、13頁、日本の名著、中央公論社、11巻、180頁を参照)
自然物については、まず利用も破壊もしないという原則があり、適切な時期と理由があるときに限り、利用が認められるというのである。
その理由は、自然と人間とが根本的に一体となっているという根本原理に基づくのである。
「人は小体の天にして、天は大体の人」(同)。
自然はマクロコスモス・大きな人間であり、人間はミクロコスモス・小さな自然である。
このようなマクロコスモスとミクロコスモスの対応・呼応という思想は、西洋ではパラケルスス(1493~1541年)のものが有名であるが、ギリシャ末期からストア主義、ルネッサンスと系譜をたどってゲーテにまで至ることができる。
3.ルソーと安藤昌益
ルソー(1712~1778年)は、安藤昌益(生没年不詳、1707~1762年と推測)とまったく同じ時に生きた人である。
昌益の方が五歳ほど年上になる。
人為的な文化が人間をダメにしているのだから、本来の自然に立ち返らなくてはならないという思想は、両者に共通
している。
もちろん両者には何の連絡もないのだから、影響関係はありえない。
昌益は、貴賎、男女の差別をなくし、万民が直耕するユートピアを描いたが、そこでは文字も学問も存在しない。
医術は、米食して農耕しつう自然治癒をまつという方式に変わる。
徹底的な自然主義的な生活が理想とされる。
「衣服は、上は綿布、下は麻布にかぎるものとする。絹の類は全面的にこれを禁止する。
……鳥獣虫魚は大が小を食うのに序列があって食ったり食われたりする。
鳥獣虫魚はおたがいに相手の食物である。
だから人間の食物ではない。鳥獣虫魚を食用に供することは禁止すべきである。
人間に備わっている食物は穀物と野菜である。
酒はもとより人間の飲物として自然に備わっているものではない。
人間にとっては大毒である。
ゆえに全面的にこれを禁止する。」
(安藤昌益『自然真営道』日本の名著、中央公論社、19巻、252頁)
昌益の場合でも、基礎理論は根源となるひとつのものが自己運動的に展開していって万物となるという朱子学型の思想である。
ただし、昌益は先行のあらゆる思想を批判して独自の展開方式を編み出している。
この自然の営みに合わせて生きることが正しい生き方になる。
「しかるに聖人は山中の金を掘り出し、金、銀、銭を鋳て、これを天下に通用させた。
これ以来世界万国で金のある所を穿ち掘り、金を宝とするようになったのである。
もしも金を用いる人間がこれを貯えておいて万々年本処の土に戻さず、ひたすら掘り取るばかりであったらどうなるであろうか。
土中では金気の堅めが弱く、天気は濁りやすく、不正の気が行われて人間は病気になりやすく、海の気は澄みにくく、水は湧きにくく、山は崩れやすく、河は埋まりやすく、地震は起こりやすく、人気はもろくなって体内に病気が発っしやすく、山には木が生えにくくなるにちがいない。
今日の世の天気、海の気、地の形、河海のありさま、人気の状態などは、まったくこれに応じている。
これは聖人の罪である。」
(安藤昌益『自然真営道』日本の名著、中央公論社、19巻、276頁)
昌益の研究者のなかには、この記述について「当時の東北地方一帯なかんずく秋田藩における大がかりな金銀銅山開発という背景があったと思われる」
(寺尾五郎、安藤昌益全集、13巻、解説、62頁)という人もいる。
「その開発の急成長ぶりはすさまじく、院内銀山のごときは、わずかの間に秋田城下の一万人をしのぐ一万五千人という人口増加を見せている。
そこには農村地帯の牧歌的平安とは異なり、奴隷的な労働にまつわる喧噪と乱脈があった。
山師、金名子、掘子や大工・炭焼を中心に、食いつめ者、切支丹、牢人などが、さらには博徒・遊女が流入したものであろう。
そのような都市的乱脈にたいする見聞が昌益にも達していたと想像してもよかろう。」(同)
昌益は「もしも金を用いる人間がこれを貯えておいて万々年本処の土に戻さず、ひたすら掘り取るばかりであったらどうなるであろうか」と自問して、土地が荒廃し、鉱山がいつかは廃坑になる時には取り返しがつかななっているという現実的な見通
しを立てるのではない。
「金の気のが弱く、天の気は濁りやすく、病の気が強くなりやすく、海の気は澄みにくく、水は湧きにくく、山は崩れやすく、河は埋まりやすく、地震は起こりやすく、山には木が生えにくくなり、今日の世の天気、海の気、地の形、河海のありさま、人気の状態など」森羅万象が疲弊し、病変していくという幻想的な場面
を繰り広げ、「これは聖人の罪である」と断定する。
4.ソロー「森の生活」
「自然は人類の母である。
地中から霜が這い出たものは、春であり、地球がまだその襁褓(むつき)の時期にあることを示している。
神話が詩に先立つように、それは緑の、そして花咲く春に先駆ける。
冬という食いもたれを一掃するのにこれに越したものはない。
恐れを知らぬ大胆な額からは、新しい巻毛がはえだす。そこには無機的なものは何もない。
これらの葉群れのようなかたまりは炉のなかの鉱滓のように、土手に沿って横たわり、自然がまだ内部ではさかんに吹き分けられていることを示している。
地球は書物の紙葉のように層をなして重ねられ、死んだ歴史の断片ではなく、花や果実に先駆ける木の葉のような生きている詩である。
その偉大な中心の生命に比べれば、すべての動物、植物の生命はたんに寄生的なものにすぎない。」
(神吉三郎訳「森の生活」岩波文庫、380頁)
5.レオポルトの「土地倫理学」
現代的意味で初めての環境主義者の一人と言えるアメリカのナチュラリスト、ジョン・ミューア(1838~1914)は、アメリカの超絶主義者の影響を強く受けていた。
ミューアは、動植物、岩、水はすぺて「神の魂の火花」であると信じた。
ミューアら保存主義者(preservationists)は、原野をそのままの状態て残すぺきである、つまり健全な生態系は人問の管理ではなく自然の過程の結果 であると主張した。
ギフォード・ピンシヨーは、自然地域の「賢明な利用」つまり「計画的な開発」を認め、原野は人間の要求を満たすために科学的に管理されるべきであると主張した。
彼らは保全主義者(conservationists)と呼ばれる。
アルド・レオポルトは「土地倫理」(land ethics)という考え方を提起して、「土地は所有物ではない」と主張した。
Aldo Leopold:A Sand County Almanac,Oxford University Press,1949
(邦題『野生のうたが聞こえる』新島義昭訳 森林書房 1986年)
アルド・レオポルト(Aldo Leopold 1887-1948)合衆国森林官の仕事を長年務めたのちにウイスコンシン大学の教授となり(1933)、狩猟鳥獣管理(gamemanagement)の授業を受け持った。
「土地倫理」は、彼の遺稿である「砂の国の暦」の中に書かれている。
「オデュッセウスは、トロイの戦いから帰還すると、留守中に不埒な振舞いがあったと見なして、自分の家の奴隷少女12人を一本のロープで縛り首にした。
縛り首の処置に、適否の問題はなかった。
少女達は所有物だった。
所有物を処分することには、当時も、現代と同じく、便宜(expediency)の問題であって、正しいか間違いか(right
and wrong)の問題ではなかった。
……これまでのところ、人間と土地および土地に依存して生きる動植物との関係を律する倫理は存在しない。
オデュッセウスの奴隷少女と同じように、土地はいまなお所有物である。
土地との関係は相変わらずまったく経済的関係で、[人間に]特権はあるが義務がない。」
(邦訳310-312頁、語句を多少変更)
人間が一方的に土地を利用し処分することは不当であり、土地の側にも権利を認めなくてはならない。
土地はいまでも所有物であるが、本当は所有物ではない。
人間が自由に処分したり、廃棄したり、利用したりする物件ではない。
ここでいう「土地」とは、「生態系」のことであり、「生物共同体」という言葉もレオポルトは使っている。
「あるものは、それが生物共同体の統合、安定、美を保つ傾向にあるならば、正しい(right)。
反対の傾向にあれば、間違っている(wrong)。」
(邦訳343頁、語句を多少変更)
6.レイチェル・カーソン「沈黙の春」
「アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然とひとつだった。
町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもりあがり、斜面
には果樹がしげっていた。
春がくると、緑の野原のかなたに、白い花の霞がたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。
丘の森からキツネの吠え声が聞こえ、シカが野原のもやのなかを見えつ隠れつ音もなく駆け抜けた。
(中略)
ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。
いままで見たこともきいたこともないことが起こりだした。
若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。
どこへ、行っても死の影。……
自然は沈黙した。
うす気味悪い。 鳥たちはどこへ行ってしまったのか。
みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。」
(レイチェル・カーソン『沈黙の春』青樹簗一訳、新潮文庫、11頁)
まるでSF映画の出だしのようなイメージだが、これがアメリカ全体で起こっている事実を一箇所に圧縮した姿だとカーソンはいう。
そして「アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。
そんな町や村がいっぱいある。
いったいなぜなのか。
そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。」
(同、13頁)と述べて、全米からたんねんに集めたデータを科学的な解説としては分かりやすさの手本となり、今後の生活の予感としては胸に迫る詩的な名文で、DDTやBHCなどの駆虫剤を中心とする農薬の生態系への恐るべき影響を描き出した。
「撒布剤、粉末剤、エアゾールというふうに、農園でも庭園でも森林でも、そしてまた家庭でも、これらの薬品はやたらと使われている。
だが<益虫>も<害虫>も、みな殺しだ。
鳥の鳴き声は消え、魚のはねる姿ももはや見られず、木の葉には死の膜がかかり、地中にも毒はしみこんでゆく。
そして、もとはといえば、わずか二、三の雑草をはびこらせないため、わずか二、三の昆虫が邪魔なためだとは…。
地表に毒の集中砲火を浴びせれば、結局、生命あるものすべての環境が破壊されるこの明白な事実を無視するとは、正気の沙汰とは思えない。
<殺虫剤>というが、<殺生剤>と言ったほうがふさわしい。」
(同、17頁)
自然の生態系のなかでは、さまざまな生物が相互依存のネットワークを作っている。
ところが人間は、特定の作物だけを保護するために特定の生物を死滅させようとして、化学薬品を使う。
ところが、化学薬品はあらゆる生物を無差別に殺害する。
それによって生態系全体が死滅の危機に追いやられる。
生命界の一部分である人間は、生命界全体のなかの特定部分を利用し保護するために、他の部分を殺害しようとして、結局は全体を死滅させる。
その結果として人間は人間を死滅させるだろう。
「自然を征服するのだと、しゃにむに進んできた私たち人間、進んできた跡をふりかえって見れば、見るも無惨な破壊の跡ばかり。
自分たちが住んでいるこの大地を壊しているばかりではない。
私たちの仲間、一緒に暮らしている他の生命にも破壊の鉾先を向けるのだ。
過去2、300年の歴史は、暗黒の紋章をもつ。
アメリカ西部の高原では野牛の殺戮、鳥をうって市場に売り出す商売人が河口や海岸に棲む鳥を根絶に近いまで大虐殺し、かたはしから大白鷺を取りまくって羽をはぎとった、など。
そして今また、新しいやり口を考えだしては、大破壊、大虐殺の新しい章を歴史に書き加えていく。
あたり一面殺虫剤をばらまいて鳥を殺す、哺乳類を殺す、魚を殺す。
そして野生の生命という生命を殺している、そう言っても嘘にはならない。
私たち現代の世界観では、スプレイ・ガンを手にした人間は絶対なのだ。
邪魔することは許されない。昆虫駆除大運動の巻き添えを食うものは、駒鳥、きじ、あらいぐま、猫、家畜でも糞喰らえ、雨あられと殺虫剤の毒はふりそそぐ。
誰も反対することはまかりならぬ。」
(レイチェル・カーソン『沈黙の春』青樹簗一訳、新潮文庫、105頁)
カーソンは、自分で新しい事実を発見したのではなくて、情報を集約して、そこに個々の情報では見えない連関を指摘した。
その結果つぎのようなことが明らかになった。
① | 有機塩素系化合物と有機リン系化合物は、「動物には害がない」と考えられていたのに反して、鳥や魚を殺すばかりか、人間の神経系を犯す。 |
② | 人間の身体のなかでさまざまな化学物質が複合して生理障害、精神障害、癌の発生などをうながす際にはとても長い期間がかかる。 |
③ | 撒布された農薬が地下水を汚染し、多様な化学物質が反応しあって発ガン物質が発生する。 |
④ | 農薬が生態系の中の食循環に入り込み、長期にわたって残留し、植物に移動するなどする結果 、たくさんの種類の生物の死滅の原因となる。 |
⑤ | 昆虫が農薬に対して進化による耐性を身につけるようになるために、農薬により昆虫退治は限りなく危険な薬品を使用する方向にエスカレートする。 危険度の少ない薬品に切り替えるとか、天敵を利用するとかの生態学的技術の方が有効である。 |
7.さいごに
化学物質は、人間や他の生物の健康に対して、長い年月にわたって影響を及ぼすことが分かってきた。
科学は、仮説に対して実験を何度も繰り返し証明していく学問で、反復することによって真理であることを確かめるという反復実験から脱却できない。
しかし、反復実験ができる時間がせいぜい100年位であるとすると、1000年以上に渡って影響を与える力を持つ化学物質の安全性を、我々は確証できない。
化学物質の影響力は、我々が安全であると言いきれる「責任」という概念が成り立つ時間の範囲をはるかに超えてしまっているのである。
しかも、いつになったら「正しい」と言えるかが、分からない。
したがって、我々は、化学物質が危険であることを前提として何らかの対策を取らなくてはならない。
そうしなければ、現在生きている人間は、未来の人間の生存に対して責任を果たすことはできないのである。
環境倫理の三原則
1.人間だけではなく、人間以外の生き物にも生存の権利を認める。
2.地球は無限ではない。地球は有限である。
したがって、地球から資源を取る、地球にモノを捨てるという行為は、「ただ」では済まされない。
3.未来世代の生存条件の確保に対して責任をとらなければならない。
※この講義編集にあたっては、京都大学での講義を参考に作成しています。
講義全文については、京都大学文学部のホームページに掲載されていますのでご覧ください。
【参考文献】 環境問題全般
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加藤尚武
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ジョン・パスモア
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新島義昭訳 森林書房 1986年
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ローマ・クラブ
『成長の限界』
大来佐武郎訳、ダイヤモンド社、1972年
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戸田清訳、技術と人間、1988年
ピーター・シンガー
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エイモリー・ロビンズ
『ソフトエネルギー・パス』
室田泰弘他訳、時事通信社、1979年
E・F・シューマッハー
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小島慶三他訳、講談社文庫
「インターネット市民講座」の著作権は、各講師、(社)日本環境教育フォーラム、(財)損保ジャパン環境財団および(株)損保ジャパンに帰属しています。講義内容を転載される場合には事前にご連絡ください。
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