籠橋隆明氏
講師紹介
籠橋 隆明氏
弁護士。日本環境法律家連盟事務局長。「自然の権利」基金事務局長。昭和32年生まれ。京都大学法学部入学、昭和62年京都弁護士会登録。


1.原告アマミノクロウサギ

奄美大島は高温多湿の亜熱帯的気候に支配されている。真冬でもすみれなど春の花が咲き、森にはソテツやヘゴが繁殖し、海岸部にはマングローブやアダンなど本土ではなかなか見られない亜熱帯植物が生い茂っている。また、奄美大島には海の向こうに先祖の暮らす幸せの国、ネリヤカナヤ(沖縄ではニライカナイ)があるという信仰など、本土にはない文化があり、奄美の自然は奄美の文化的な支えとなっている。後に述べるようにこの奄美独自の自然と文化が奄美「自然の権利」訴訟という裁判を産んだと言える。
1990年ころ、当時、バブル経済の影響から奄美大島内の住用村(すみようそん)と龍郷町(たつごうちょう)にゴルフ場開発が計画された。いずれも、奄美大島内でも良好な自然の残る地域で、住用村ゴルフ場にはアマミノクロウサギが高密度に生息していた。これらの開発に対し、地元の自然保護団体を始めとした様々な団体がこれに反対し、活発に運動を展開していた。しかし、1992年3月、住用村ゴルフ場開発に対して開発許認可がおりたために、反対運動側は、法的な専門知識を得ることによって新たな展開を図りたいと考え、弁護士に相談した。
我が国の自然保護問題や国土開発問題に関する決定権は、概ね国や自治体が独占しているために、住民や市民が参加し是正を求める機会は、ほとんど与えられていない。そのため、環境保護運動の期待とはうらはらに、私たち弁護士は、法的手段について悲観的な回答をせざるを得ないというのが実状ではないだろうか。しかし、いかなる場合であっても我々環境派弁護士は、運動に対し責任を持ち、法的検討が運動を前進させることを示す責務がある。我々の役目は、複雑な開発法規を検討し、事例に沿って問題点を明らかにし、運動の目標を設定することにある。また、訴訟についても、提起し、訴訟を維持することに価値がある裁判も存在するということを、明らかにする。訴訟は、たった一人でも、国家でさえも対等に向かい合うことのできる手続きであり、市民にとっては直接的な表現行動でもある。運動の断固たる意思表示としての価値ははかり知れない。
原告をアマミノクロウサギにするという発想は、このような運動と弁護士との対話の中で生まれてきたものであった。運動側は奄美の野生生物や自然を守るために多くの情熱とエネルギーを注いできた。そして、運動する側の最も切実な思いが、野生生物が原告という「自然の権利」訴訟へと結びついていったのである。



2.「自然の権利」が提起した問題

野生生物を原告にするという発想から始まった奄美「自然の権利」訴訟であるが、野生生物原告という前代未聞の訴訟形態が、裁判所はもちろん社会に受け入れられるかどうかが心配された。この訴訟がかなり重要な問題を提起するであろうことは、これに関わる誰もがすぐに理解できた。しかし、日本にそれを受け入れる土壌があるかどうかが心配されたのである。単なる冗談で片づけられてしまった場合には、せっかくの「自然の権利」の考えも、日本では論議されることなく終わってしまう危険があったし、運動にはふざけた人達というレッテルが貼られてしまうことになりかねない。
そこで、私たちは、自然保護の理念、生物の多様性政策に対する国際的潮流、アメリカ環境訴訟の展開など、学術的な展開を徹底することによってこの訴訟に環境史上の重要な位置づけを与えることにした。一方で、地元での運動の他に、東京を中心に運動を展開することにより、奄美の開発問題や「自然の権利」が国の政策にかかわるものであることをアピールした。私たちのこの戦術は、多くの社会的事件に伝統的に採用されているものである。もっとも、このような戦術を取ると言っても、我々が訴訟を準備した当時には、「自然の権利」に関した資料がなく、訴状作成は暗中模索のなかで2年間もの検討を要した作業であった。また、東京で運動を展開するといっても、結局は全国的な集会で発言したり、首都圏で学習会や集会を繰り返すという地道な作業の連続であった。ともかく、1995年2月24日、鹿児島地方裁判所に奄美「自然の権利」訴訟が提起された。
この訴訟は森林法10条の2に基づく開発許可の取消を求める行政訴訟であるが、「人」と並んでアマミノクロウサギほか4種の野生生物を原告として表示したこと、主張中に「自然の権利」というこれまで我国にはあまり馴染みのない「権利」を取り入れたことで、マスコミに大きく報道された。その反響は私たちの予想を大きく上回り、訴訟と運動とを結びつけ、社会問題として提起することにより解決を図るという伝統的な戦術が、まるで教科書のように展開していったのである。現在ではセンセーショナルな反応の時期が過ぎ、まじめに「自然の権利」が論議されるようになりつつある。
現在の環境問題は多様なNGOがモザイク模様のように活動を展開し、全体として前進を図っているというのが実状であろう。環境NGOの多様化は、環境思想の多様化の反映でもある。「自然の権利」は、多様に展開する現代環境思想を論ずる上で恰好の素材を提供したと言えるし、「思想」として語られた論議が「自然の権利」という考え方をもとに、裁判という実践的な場で通用するかどうかが注目された。そして、何よりも重要なことは、訴訟による解決が困難であるとされていた、自然保護問題、生物の多様性の課題が、訴訟によって解決を図ることができる展望を示した点である。自然保護の問題を解決するために、訴訟は有効な手段であるとアピールできたのである。



3.「自然の権利」思想の歴史的系譜

産業革命は人間と自然との関係を大きく変化させた。科学技術の発達は生産量を飛躍的に発展させ、自然は無償で無限の財として消費され続けてきた。進歩というのは物質的な豊富さを意味するようになり、物質文明の発展は自然に対し深刻な打撃を与えるまでになっている。しかし、環境破壊が人間の生存そのものを脅かし始めている事実が、科学的に予測可能な事態となるまでに及んで、このような人間中心の考えに対して変化の兆しが現れ始めている。現代社会は、環境と人間、自然と人間との関係についてあらたな倫理、制度を模索している状況にあると言えよう。「自然の権利」はこの問題に対し、一石を投じるものである。
「自然の権利」は、自然には自然固有の価値があり、人が自然の価値を、自然それ自身のために代弁して訴える、という構造を持つが、その思想的歴史は1949年に発行されたアルト・レオポルトの「砂の国の暦」という著述に始まる。ウィスコンシン大学の狩猟鳥獣管理学の教授であったアルド・レオポルトは、豊富な生態学の知識を背景に自然保護の考え方を説いてまわった。この著作で彼は「ランド・エシック」(我が国では土地倫理、または大地の倫理と訳される)という言葉を使い、次のように語っている。
「ランド・エシックとは、要するにこの共同体という枠を、土壌や水、植物、動物、つまりはこれらを総称した『土地』にまで拡大した場合を指す。要するに、ランド・エシックは、ヒトという種の役割を、土地という共同体の征服者から、平凡な一員、一構成員へと変えるのである。これは、構成員に対する尊敬の念の現れであると同時に、自分の所属している共同体への尊敬の念の現れである。」(新島義昭訳、「野性のうたが聞こえる」、森林書房)。
自然を共同体と考えたこと、人間は決して特別な存在ではないことを唱えたこの考えは、その後の環境保護運動に大きな影響を与えた。大地の倫理の考えは、生態学という自然の秩序を探究する科学を背景に、環境保護の思想が展開した点に重要な意義を有する。
アメリカの環境保護運動は様々な発展を遂げたが、「自然の権利」との関係で重要なのは、南カリフォルニア大学教授クリストファー・ストーンによって1972年に発表された「樹木の当事者適格(Should Tree Have Standing?)」という論文である。彼は自然物にも法的な権利があり、その権利が侵害されれば妨害の排除、回復、損害賠償が認められるべきであるという考えを発表した。国家や学校などの非人間的な存在でも法人格を持つように、自然物も法人格を持たせることができる、そして、自然物の権利は自然のことを最もよく心配する市民によって代理あるいは代位して行使されると考えたのである。
この論文の結論を進めれば、自然物の権利を侵害する違法な開発許可を争う者に対して、自然物を代弁するということだけで当事者適格が与えられる道を開く可能性が出てくる。もっともストーンが自然物の権利を天賦人権のように前国家的権利と考えていたかというとそうでもなく、むしろ自然に権利を与える制度の方が、自然保護を図る上で合理的なのだと考えていたようにも見受けられる。
ストーンの論文が発表された当時、ミネラル・キング渓谷事件に関する訴訟が連邦最高裁判所で係争中であった。この事件はシエラネバダのミネラル・キングという美しい渓谷にウォルト・ディズニー社がリゾート開発を予定していたところ、これに反対するアメリカを代表する環境NGOであるシエラクラブが開発許可の違法宣言を求めて提訴した事件である。シエラ・クラブは徹底して自然の利益を主張する戦術に出た。そして、1972年4月19日上告棄却の判決が出たが、少数意見ながら連邦最高裁タグラス判事がストーンの論文を随所に引用した。ダグラスは次のように述べている。
「自然生態的な均衡を保護することに対する最近の大衆の関心は、環境客体に自己の保存のための裁判を提起する資格を与える方向に進むべきである。・・・そこで、この裁判はミネラル・キング対ストーンと名付けられるのがより適当である。」。ダグラスは原告名を谷とする方が適当であると述べたのである。ストーンの論文の意義は、それまで倫理の問題とされてきたレオポルトの「大地の倫理」の課題を、現実性を持つ社会的制度、法的制度として可能性を持つことを示した点にある。
こうして、自然物を原告として表示する訴訟が始まった。ストーンの論文以降、1974年から1979年の間に、汚染された川、沼、海岸、種、樹木の名前で訴訟が展開された。さらに、1973年には「THE ENDANGERED SPECIES ACT」(ESA) が制定され、ESAに違反した行為に対し、誰でも(any person)国家に代わって、是正を求めることができる、いわゆる市民訴訟条項が盛り込まれた。この条項は、自然の価値を人が代弁できる構造を持つもので、我々はこの市民訴訟条項を「自然の権利」を実現するものと位置づけている。



4.「自然の権利」における自然の価値の考え方

「自然の権利」においては、自然はそれ自身に価値がある、自然が長い進化の過程で獲得してきた生物・非生物の相互関係の核心部分を失うことなく存在しつづけることに価値があると考える。そして、人にとって、そのように自然が維持されることは価値があると考えるのである。
自然保護については、従来、学術的価値や審美的価値、さらには自然から受ける大いなる霊感といった超越的な価値から論じられていたが、今日では生物、非生物の相互関連、特に地球規模での相互関連なども解明されるようになり、生物の多様性の意味についても、より根本的な視点から論じられるようになった。地球上のすべての生物、非生物は相互に密接に関連しているということは、今日だれも疑わない事実である。人間とて例外ではなく、人間は自然より物質的、文化的、生物学的な資産を得てきたし、今後もそうした試算を必要とする。最近の研究によれば、人類の歴史は自然環境と人間社会との相互関係に密接にかかわっていることが証明されつつある。こうした研究者の中には「人類の歴史も根本の部分は生態系の法則に握られている。」(クライブ・ポインティング著、京都大学環境史研究会訳「緑の世界史下」朝日新聞社、257頁)と言明する者も少なくない。
人間と自然との関係は、かつて人間の力に対して自然の力は圧倒的に強かったが、現在社会では人類は地球という惑星全体に大きな影響力を与えるまでになっている。人間の影響によって多くの野生生物種が絶滅しつつあり、「人類が、自然の損耗をはるかに上回る速度で、そして自然のプロセスによって新しいもので置きかえられるよりずっと早い速度で、生物種の個体群を絶滅に追いこみつつあるということが明らかになりつつある。」(ポール・エーリック外著、戸田清外訳「絶滅のゆくえ」新曜社、序文5頁)。種の絶滅が人類にとって深刻な影響をもたらすことは今日では国際的な共通認識となっている(世界資源研究所外編、佐藤大七郎監訳、「生物の多様性保全戦略」(Global BiodiversityStrategy)、中央法規出版株式会社、1頁〜5頁)。「一種類ずつ生物が滅びていくとき人間性も減退していく」(E.Oウィルソン「急速に減速する生物種」日経サイエンス社、別冊サイエンス「地球環境を守る」63頁)のである。
このような環境に対する認識から、最近では生物の多様性自体を一つの系として、そのまま保護しようという環境的視点の考え方が多くの支持を得るようになり、今日の環境保護政策の主流の考え方になりつつある。つまり、審美的価値があるから保護する、学術的価値が高いから保護するというのでは保護のあり方に総合性を欠き、それでは、生態系として密接に関連しあう自然全体を保護することはできない。また、人間は地球生態系ともいうべき系の一部を構成しているのであるから、系の一員として守るべき義務があるはずである。それは生態系のルールを理解し配慮することである。最近の環境保護思想においても、自然はどのような生命も独自なものであり、原則として保護に値するという考えが有力である。自然の公共的意義も自然の資源的価値とともに、環境的視点から意味付けもなされるようになっている(鬼頭秀一「自然保護を問いなおす」、ちくま新書、34頁。岡島成行「アメリカの環境保護運動」岩波新書、143頁以下) 。
以上のように自然環境は未だ解明されていないこと、自然環境は脆弱なものであること、自然環境の破壊が人という種の存続を左右するものであること、それ故、自然保護のためには総体として生態系が保護されなければならないことが認識されてきたと言える。「自然の権利」とは、そのような自然の身になって考える保護政策を求めているのである。



5.「自然の権利」と公共性

「自然の権利」弁護団の立場からすれば、人にとって当然に価値があり、自然は高い公共性を持つ故に保護すべきであるということになる。必ずしも自然に天賦の権利があるから保護すべきということにはならない(もちろん、そのように考えて支持することは可能である)。しかし、単純に「公共」というとき、その中身には自然の価値だけではなく、開発的利益など対立する様々な価値が含まれる。およそ、公共的価値があるから保護される訳ではない。自然保護を行うのであれば、公共的価値から自然の価値を抜き取り、自然の価値について厳密に考えていき、その上で他の公共的価値と対決させていく必要がある。また、自然の価値は、国民一人一人の利益に還元するときには拡散しやすく抽象的になりがちである。例えば、遺伝資源として将来価値があるかもしれないといっても、個々の国民にとってどうかということになると必ずしも具体的ではない。そのため、目の前の開発利益と対決するとき、どうしても自然保護は立場が弱くなってしまう。
そこで、「自然の権利」という形で自然の価値、公共性を具体化する作業を進めるのである。自然の公共性とはいっても、保護の場面ではアマミノクロウサギを含む生態系をどのように守るかという具体的な課題となる。それを、自然の公共的価値をアマミノクロサギを含む生態系の権利として具象化し、守るべき範囲を確定していこうというのである。「自然の権利」を決める段階で、特定の地域個体群、小生態系の破壊が当該地域の生態系にとってどれほどのダメージになるかを検討することによって、当該地域個体群、小生態系の公共的価値について判断し、守るべき範囲を「自然の権利」として特定し、自然保護のために人が行ってはならない範囲を決めていくのである。
このような作業はもうすでに行われている。例えば、文化財保護法は文化財保護という立場からアマミノクロウサギを特別天然記念物とし、人が入ってはならない範囲を決めている。文化財保護法には条文上の限界はあるが、エコロジーの視点から解釈することは可能である。「自然の権利」では自然の独自性保護という立場から文化財保護法はアマミノクロウサギに「権利」を認めていると解釈するのである。



6.「自然の権利」と国民の権利

自然の持つ公共性を「自然の権利」として具体化しようというのが弁護団の見解であった。公共性の意義については、国家政策の実現を表すものとして考えられ、従来から人権を制約する原理として働いてきた。しかし、公共の名のもとに進められた産業政策が、多くの公害事件を起こしたことにより、徐々にその意味に関する検討が始まり、特に大阪空港訴訟や名古屋新幹線訴訟などの公共事業をめぐる訴訟の中で、公共性の今日的意義が積極的に再検討され始めた。そして、公共性の意義も市民の権利や民主主義を実現する政策として認識すべきであると考えられはじめている(室井力「国家の公共性とその法的基準」、室井力外編『現代国家の公共性分析』日本評論社 3頁以下)。
従って、自然の公共性も国民の利益から超絶して、国家的、抽象的利益として論議すべきではなく、現在および将来の国民一人一人の利益を実現する政策として位置づける必要がある。自然環境には高い公共性があることは明らかであるが、その公共性は現在及び将来の国民一人一人にとって価値がある故に公共的価値があるとされるいうべきである。
このように考えると、自然保護という公共政策に多くの市民の参加の過程を保障することはむしろ有益なことであるといえよう。1992年6月に開催された「環境と開発に関する国連会議」では、「環境と発展に関するリオデジャネイロ宣言」が採択された。リオ宣言の第10原則は「環境問題は、適切なレベルですべて関係する市民が参加によって最善の措置がなされうる。国内レベルでは各個人が公的機関によって保管されている環境に関する情報への適切なアクセスが保障される。それは有害物質に関する情報やコミュニティーにおける活動や、意思決定過程での参加の機会を含むものである。各国は、広範な情報を提供することによって、国民の自覚と参加を促進しなければならない。賠償、救済を含む裁判上及び行政手続への効果的アクセスが用意されなければならない。」(西村忠行訳「自由と正義」43巻11号102頁)と定め、環境保護にとって市民参加の重要性を強調し、そのためのシステムの基準を宣言している。
自然の価値が国民にとって利益がある故に保護されるのであれば、民主主義、自己責任の原則からいえば、「自然の権利」は国民によって代弁される部分があってもおかしくはないし、必要なことでもある。特に、国家が必ずしも「自然の権利」の擁護者ではない以上「自然の権利」を擁護する者が必要である。自然保護が多くの草の根の市民運動によって図られてきた歴史を考えるならば、市民一人一人に「自然の権利」の代弁者たる地位を与えることは有益でもある。「自然の権利」は生態学という科学的視点を基礎にするものであるが、科学的見解は決して一つではない。それは、多くの仮説と実証が様々な形で論争され、徐々に真理に近づく過程でもある。だとすると、国家も含めて一人のものが「自然の権利」を代弁することは不当なことと言わなければならない。「自然の権利」では誰もが「自然の権利」を代弁できると考えている。そして、様々な手続き過程で「自然の権利」が代弁されることを「環境的デュープロセス」と呼んでいる。



7.環境正義と環境国家

憲法も含めて、国の法は国家と人、人と人との関係を規定して、国家と自然、人と自然との関係については必ずしも関心が払われなかった。しかし、環境問題の高まりとともに国の法が自然環境をどのように位置づけるかについての論議が活発化している。19世紀の憲法がいわゆる自由権を発展させ、20世紀の憲法が福祉などの社会権を発展させ、さらに21世紀の憲法は環境の位置づけ(環境権なども含む)を発展させることになると予想する人は多い。1994年ドイツは基本法を改正し、環境配慮への国家の責務を規定したが、その際にも自然生態系はそれ自体保護に値するかという命題が論議されたという。自然保護、生物の多様性保護の視点から言えば、審美的価値であるとか、遺伝的価値とかいった具体的利益が様々な視点から検討されているが、自然保護を全うするためにはそうした個別具体的な価値、利益を理由に保護すべきでないとするのが大きな流れになっているといえよう。自然生態系は人間の存在と深く係わっているため、これこれの利益があるから保護するというのでは、保護としては不十分であると認識されているのである。国家や人は自然に配慮すべき義務があり、それに対応して自然に権利があるとすることはけっして不自然なことではない。自然に権利があるかという考えについて、積極的に論議されているが、少なくとも法の世界では人間以外の存在に権利を認めることは技術的には問題がないと思われるし、実際に特異な例ではない。重要なのは、「自然の権利」が国家と自然、人と自然の関係を法的問題として提起している点である。
自然に実在を感じる文化は現代では少なくなってしまったが、かつては日本のいたるところに存在した。江戸末期、アメリカの使節が江戸に入ったときに、江戸という大都市に多くの野生生物が存在することに驚いたという。自然との連続性を説いた東洋思想や、日本の地域文化は、私たちと自然とのつきあい方を教えていたと思う。そこには自然を非理性的な機会と見る考えはない。自然と人間とが持続的な関係を築き上げる社会は、自然を生命宿るものと認識し独立して存在するものとして、畏敬やおそれ、友情や愛情を持つことのできる社会ではないだろうか。しかし、現代社会ではこのような考えを直ちに導入することはできない。私たちはアニミズムの世界に戻ることはないだろうし、思想の自由を重要な価値観とする国家観の下では、特定の思想をもとに社会を構成することはできないからである。科学の発展は、多くのタブーを破り生命の神秘すら明らかにしようとしている。このような現代社会では再びアニミズムへの郷愁をもとに自然保護のしくみをつくることは困難であると思われる。重要なのは、私たちが豊かであると感じる自然と人間との関係のエッセンスを分析して、現代社会と連続する形で取り入れていく作業であろう。例えば、ある先住民文化は、自然の恵みを未来世代からの預かりもの、未来世代に返すものと認識するが、これを現代社会にあてはめれば「世代間の公平」という議論になる。私たちの世界を未来世代も含めて拡大して考え、その拡大した社会での平等、公平を目指す。これは、先の先住民の思想の優れた部分が現代社会の価値観と矛盾しない形で取り入れられてきたものといえる。同様に、自然と実在するものと感じた社会が持っていた優れた部分を現代社会に応用する試みが必要なのであり、それが「自然の権利」運動である。訴訟が正義に関する思想を提起し、それが多くの人々の共感を呼んだ時、正義の思想は現実の社会を動かす力となって現れる。
アマミノクロウサギにしろ高山植物にしろ、そのような自然が地域にとって重要な価値を持ち、地域全体の発展のために重要な価値がある、というところまでに意識が高められないと最終的には多くの規制の限界に陥るであろう。私自身は、これは規制の問題ではなくてその地域の政策提起が如何に適切であるかということの問題であり、法律問題としては、地域の自然保護に関する援助システムが保護政策としてどうできあがっていくかという点が重要だと思っている。もちろん規制については、野鳥密猟におけるカスミ網などのように、現在の法律では不十分なために規制の強化、あるいは現行犯逮捕の要件の効率化など幾つかの改善点があるが、最終的には、そうした地域の政策問題ということになるだろう。
「自然の権利」の問題は単に裁判の問題ではない。「自然の権利」の究極課題は、環境国家実現に向けた、市民のための新しい法の創造なのである。



8.参考文献

タイトル 著者 出版社
「アメリカの環境保護運動」 岡島成行 岩波新書
143頁以下
「自然保護を問いなおす」 鬼頭秀一 ちくま新書
「緑の世界史」 クライブ・ポインティング著
京都大学環境史研究会訳
朝日新聞社
「野性のうたが聞こえる」 新島義昭訳 森林書房

 
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