岩槻邦男氏
講師紹介
岩槻 邦男氏
東京大学名誉教授、放送大学教授、理学博士。昭和9年兵庫県生まれ。京都大学理学部卒業後、昭和48年同教授。その間昭和46年イギリス留学、昭和53年デンマーク・オールフス大学客員教授。昭和56年東京大学理学部教授。昭和58年以後同大学理学部附属植物園長。平成5年退官後、平成12年3月まで立教大学理学部教授。


1. はじめに

「生物多様性」という言葉は、今では誰でも普通に理解してもらえるが、1970年代に日本植物学会の研究グループで植物の多様性の解析という研究計画を立てたときに、「多様性というのは科学の対象になりうるのか」という指摘を受けたことがある。1992年に開催された地球サミットで「生物多様性条約」が署名されるまで、「生物多様性」という言葉は科学の世界では、認知されにくい研究分野であった。20年ほど前になるが、私が京大から東大に移るとき様々な場面で私は、「21世紀の生物学は多様性の生物学の時代である」という言うと、周囲から変な目で見られた。が今では、どなたも否定する人はいないくらいに一般的に認識されるようになった。 また、私の専門は植物系統分類学であるが、最近はそう言わず「多様性の生物学」という言い方をしている。このことも、同じ研究対象であったとしても、内容が変わりつつあるという時代的背景があるということだろう。
生物多様性とはどのようなもので、なぜそれを問題とするのか。また生物多様性は、環境問題とどう関わるのか。科学の立場と人の生活の関わりという相互に関係のある両面から、統合的に考察してみたい。


2.生物科学の目的

生物科学の課題は「生きているとはどういういことか」を解明することにある。そのためには、どんな生物もすべて細胞の構造を基本として生きていることから、細胞がなぜ、どのように生きているかを、生命の普遍的な現象として解析する。生命現象を物理化学的手法によって解析することで、20世紀の生命科学は飛躍的な成果をあげることができた。
とはいっても、生き物のうちにはヒトもあれば、トラやゴキブリも、ソメイヨシノやマツタケも、さらには大腸菌のような微生物もある。大腸菌で解析された生きざまはすべての生き物に共通の部分もあるが、大腸菌の生が解明されたからといって、生き物が「生きているとはどういうことか」がすべて明らかにされるというものではない。
地球上にさまざまな生物が生きているのは、40億年の生命の歴史の間に、生物が進化した結果を現在という断面で示しているからである。生物の普遍性と多様性はDNAという生体高分子の特性によってつくりだされる。正確にコピーして「瓜の蔓には茄子がならぬ」ように、親の種特異性が正確に子に伝えられることで普遍性が維持されている。また、そのコピーにごくわずかなエラーが生じることから、生物の進化、ひいては多様性が生じる。
極端な言い方をすると、親から引き継いだDNAは40億年前までにさかのぼることができる。DNAは、「生きている」ことの普遍的な演出を正確にコピーするのと同時に、コピーの際に生じるわずかなエラーをそのまま保存して「多様性を示す」という性質を持っている。ということは、「生きている」ことの普遍性もDNAをキーワードとして解くことができる。生物の多様性も最終的にはDNAをキーワードとして解ける問題である。この意味で、生物多様性が21世紀の生物学の基本的なテーマになるということは、そういう解析ができるという科学的な根拠が成立したからである。 生物多様性は、遺伝子多様性、種多様性、生態的多様度、などと類型化して理解される。他に、形質の多様性、景観の多様性などもあげられることがある。
生物学における多様性を一つの話題のなかですべて取り上げて論じるのは非常に難しい。
私自身は種多様性に非常に関心のある立場にいる。しかし、環境問題として取り上げる際には生態的多様性の方がより分かりやすいであろう。


【種多様性】 現在、地球上に約150万種の生物種が認知されている。150万という数は、地球上に生息している実際の生物数から見るとごく一部である。全体数は、少なくとも1000万の単位になるであろう。これは推測である。多くの研究者は、科学が知らないものがいったいいくつあるのかを知りたいのである。もし1億5千万種あるのであれば、我々が知っている150万種はたった1%にしかすぎない。1千5百万種と少なく見積もったとしても150万種は1割である。残念ながら現在の科学ではそれくらいしか知っていないということである。
【生態的多様度】 ある一定の地域のなかで、何種の生物が生きているかということである。ところが生物多様性が一般的に認識されるようになると、生態的多様度はさまざまな意味で使われるようになった。地球全体の生態的多様度は種多様性を指す。


3. 生物多様性の研究にはどんな意味があるのか

-生物多様性が、人にとってどれだけ役に立つかということについて二つの観点から考えてみる。

(1)遺伝子資源として

FAOが70年代に、今世紀末までに現在の約60%の食糧増産が達成されないと、21世紀に人類は飢えに直面すると報告した。日本に生活している人達は、食糧がなくなるなどということは現実に思えないかもしれないが、世界的規模で見ると、食糧問題は非常に厳しい状態に直面しつつある。これを救う方法は、人口増加を抑制することと資源供給を増やすことであろう。最近のバイオテクノロジーの発展により資源の開発に可能性を望みたいところだが、バイオテクノロジーで遺伝子資源を活用しようとしても、じつは我々は遺伝子資源についてあまりよく知らないのが現状である。認知されている150万種のうちの大多数はやっと名前がついたものばかりで、一種一種についての生態や詳細については解明されていないのである。地球上で植物は25万種くらい分かっている。25万種の中で資源として活用されている種はごく限られている。FAOによるとイネと麦とトウモロコシだけで全地球の食糧エネルギーの65%が賄われているという。これに大豆やイモなどを加えると400種くらいになり、食糧エネルギーの99%を占めるという。25万種あるうちの400種で賄われているということである。本当の意味でのバイオテクノロジーの進歩ということを踏まえて考えると、我々が今まで全く活用してこなかった野生種の遺伝子資源の活用は、現実にありえることだ。現在、生産性がもっとも高いのは熱帯地方の低木であるが、これに例えばコシヒカリのようなおいしいでんぷん質をりんごのような形で結実させたら非常に生産性が高まるだろう。そういうものをつくろうとしたら、おそらく現在使っている遺伝子資源だけではできない。野生種のすべては、このような将来有効になるかもしれない潜在的な遺伝子資源といえる。ところが、潜在的な遺伝子資源に対する研究は、あまり進んでいない。地球上の全植物のリストを作成し、誰でも利用できる形にしようとする研究を1991年から行っているが、遅々として進んではいない。


(2)環境要素の保全

我々の身体の一部が破壊されても生命に影響はない。しかし、部分の破壊がどんどん進んでいくと、ある時点で個体として生命が維持できなくなる。同じように、地球環境についても、生物多様性の一つのシステムが破壊されていくことによって、環境に影響が現れる。そうならないように多様性をどう維持していくかということが、人類の存続と同様に非常に重要で不可欠なことである。

生物多様性の研究で最も重要なのは、それが生命そのものの研究であることである。生命はDNAに担われて親から子へと連綿と受け継がれていく。したがって、物質的基盤で生命がどう伝えられているかということは解けるはずである。しかもDNAが鋳型になってRNAをつくり、RNAが鋳型になってたんぱく質をつくり、たんぱく質がさまざまな身体を構成する物質をつくる。DNAが命令することによりあらゆる物質がつくられるのである。 そういう物質が細胞という単位をとったときに初めて生物として生きていることになる。 DNAは生体高分子であるが、DNAだけでは生きているとはいえない。DNAは分子の状態でとりだし結晶にすることができるので、これ自体では生きているとはいえない。単細胞生物がそうであるように、細胞という状態で初めて生きているといえる。

30数億年、DNAは一環して生き続けている。どう生きているか。我々は個体としてある一定の寿命を持って生きている。生きている自分の身体は生物にとってはまさに仮の姿であって、私の生物としての生きがいはDNAを次の世代に伝えることだけである。次の世代に受け継がれれば、身体は死んでしまう。永久に生きられるのはDNAだけなのである。DNAが永久に生きられるために、常に細胞、個体、種はリフレッシュして新しい状態になっていなくてはならないのである。 生物は、お互いに個体間でコミュニケーションをとっている。しかし、ヒトが他の生物と異なるのは、言語・文字を使い、完成した情報を生体の外である社会の中に蓄積することができることである。これが文化である。「知」は人に固有のものである。科学はまさにこの知的な発展なのである。


《生命系》

個体のレベルでは生きていることは実感しやすいが、種が生きているというのはなかなか理解しづらい。本当は個体以上のシステムで生きていることを理解しないと生物多様性が何か、生きているとはどういうことか、ということは解明できない。
服、食べ物、薬、道具、材料、一切合切我々は他の生物に頼っていないと生きていられない。自分以外の生物が生きていないと自分の生命が成り立たない。自分の体をつくっている細胞が自分にとって必要なように、自分の周辺の生物が必要不可欠なのである。
周辺の生物にとっても自分以外の生物が必要である。このような鎖をどんどんつないでいくと、どの種をとってみても、他の種と無関係に存在している種はない。地球上で網の目のようにつながっている。
ヒトの起源を40億年前までたどっていくと、一個の生命体にたどりつく。DNAにエラーが生じることによって生物が多様化してきた。我々はたまたまヒトになっているだけである。進化の途中でDNAが変わっていれば植物になっていたかもしれないし動物になっていたかもしれない。
「1億種以上に分かれた生物多様性という空間的広がり」と「40億年という時間的広がり」が「生命系」という一つのシステムをつくっているのである。

地球の生命系
ヒト
(多細胞の)個体
生命の始原型(1種) 受精卵(単細胞)
単細胞→多細胞体 嚢胚
生物多様性
(億を超える数の種)
(個体数?)
個体
(70兆の細胞)

「進化のmotive force
個体以上のレベルでの統合」

「遺伝情報による制御
個体発生:integration」



4. 絶滅危惧種の意味

細胞と同様に一、二種の生物が絶滅しても生命系には影響がでないというかもしれない。しかし、それがどんどん増えていったらどうなるか。トキは日本という地域では絶滅した。トキだけに寄生しているダニがいるが、トキが絶滅したことによってこのダニも絶滅した。トキが絶滅するということはトキが生きていけない環境条件になっているということでもある。トキ固有のダニのように明確ではないが、トキが生きていたような環境に生きている生物というのも同様に生きづらくなっている。トキを通じてつくっている生命系のネットワークの一部が破壊されたからである。このようにトキが絶滅するということはトキという動物が絶滅するのと同時に、それに象徴される生物多様性が崩壊しつつあるということである。絶滅危惧種の問題はこういうことなのだ。しかし、たった1種の生物が絶滅するよりも、そこで生きている人間の生活の方が大事というのが現在の一般的な理解ではないだろうか。
人間の命よりも野生生物の存在の方が価値が高いとする研究者もいるが、私は、我々が自然を保護するという究極の目的は、我々人間が存在できるためであると理解している。人が自然と共存しつつ、人類の持続可能性を目指すことが環境保全の基本ではないだろうか。これは、生命系の生命を維持するためにも重要なことである。
20世紀において「科学」や「技術」は飛躍的に発展した。
我々が認知した150万種という生物の数はひょっとしたら地球上の生物のわずか1%かもしれない。我々の科学は確かに進歩はしているが、しかし、生きているとはどういうことかという最終的な答えを得るためにはまだまだ気の遠くなるような時間が必要である。科学はまだ進歩していないとも言えるのである。そんななかで、科学技術というものに対して、我々は知らぬ間に万能の技術のように過信してはいないだろうか。1%程度の知識しかないのに、なぜ科学技術のみを信仰することができるだろうか。
生物多様性の持続的な利用というと、功利的で実利的な言い方だが、私たちは70兆の個々の細胞から成る個体として生きているのと同時に、生命系の一つを関連づけている生命の一つの要素として生きていることを自覚しておきたい。だとすると生命系の一つ一つを大事にするということは重要ではないか。
最近存在価値が評価されている「里山」という自然は、実は我々の先祖たちが今でいうところの環境破壊である開墾や稲作を繰り返してつくってきた環境である。しかし、里山を環境破壊の残滓と言う人はいないだろう。それは先祖の人々が、一つ一つのことを試行錯誤をくりかえしながら農耕牧畜という生活様式を確立していったからであろう。ところが我々はいま、試行錯誤しているだろうか。「技術」を疑うことなしに過信し「経済性」を追求し、暗闇を疾走してはいないだろうか。
一人でも多くの人が自然のしくみや人と環境とのかかわりについて関心を持ち、生命系へのつながりを想像してもらいたい。


5.参考文献

岩槻邦男 生命系−生物多様性の新しい考え 岩波書店
1999
岩槻邦男 文明が育てた植物たち 東京大学出版会
1997
岩槻邦男 シダ植物の自然史 東京大学出版会
1996
岩槻邦男 植物からの警告-生物多様性の自然史 日本放送出版協会
1994
岩槻邦男
下園文雄
滅びゆく植物を救う科学
-ムニンノボタンを小笠原に復元する試み
研成社
1989

 
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