2004年度 市民のための環境公開講座
   

パート4:

環境問題の根源を学ぶ
第4回:
環境革命の時代
講師:
伊東俊太郎氏 (麗澤大学教授・比較文明文化研究センター長)
   
講師紹介
伊東俊太郎氏
麗澤大学教授・比較文明文化研究センター長
 
1.環境文明の時代
 
 現代は人類史上における重要な転換点で、根本的な文明の転換というものが求められております。人類の存亡をかけた変換期、これを私は「環境文明の時代(環境革命)」と名づけたいと思います。
 
 
2.クライシスを乗り越えて
 
 人類は今まで5つのクライシス(危機の時期)を乗り越え、文明の転換期を乗り越えてきました。まずは1)人類革命、2)農業革命、3)都市革命、4)精神革命、5)科学革命です。尚、5)科学革命は産業革命を経て現代のIT革命につながっています。現代は先ほど述べた「環境革命」の時期に入っていますが、軽視すれば人類の破滅につながりかねないのです。
 
1)人類革命
 人類革命はつまり人類の誕生です。類人猿からチンパンジーやゴリラというようなものから人類が分かれ出た変革なのです。そこから人類史が始まります。
 さて、人類は東アフリカで誕生しました。アフリカで一元的に発生して世界に拡散した考え方は、DNAも含めあらゆる場面で立証されています。人類の誕生はどの時点で決まるのかと言えば、直立歩行です。例えばアファールの三角地帯で「アウストラロピテクス・アファレンシス」というのが発見されましたが、これはなんと300万年前の人類です。アルディピテクス・ラミデスは450万年前です。最近、500万年〜600万年までさかのぼると言われている、ミレニアム・アンセスターがアフリカで発見されました。そうした猿人が原人に進化して世界中に広がって行きました。
 
2)農業革命
 人類が農耕を開始した時代が農業革命です。それまでの人類は狩猟採集の生活でしたから、一定のところに定住せずに生きてきました。それが、今から1万2千年前に後氷期に入りました。その頃に起こったのがヤンガードリアス期と言われる寒冷期です。それまでは温暖で豊富な食料があったのにそれが取れなくなったのです。そこで食料を得るために農耕や牧畜が始まりました。その始まりはパレスチナのあたりです。こうした人為的に食料を確保する営みの始まりが農業革命です。この流れはいくつかの地域で起こります。パレスチナからメソポタミアでは麦が中心でした。東南アジアでは芋が中心でした。一方アフリカでは、二ジュール側のほとり、現在でいうマリ王国のあたりで雑穀を中心とした農耕が起こりました。アメリカ大陸では時期が遅れますが、トウモロコシを中心とした農耕が起こりました。
 ここで注目すべき点は中国です。今までは黄河文明で麦・稗・粟の栽培をしていたとしかわからなかったのですが、最近の発掘調査では、長江の中流域の玉譫岩において、1万1千年前の稲作の痕跡が発見されたのです。農耕は伝播するものですから、東の方は米の文化圏となり、西は麦の文化圏となりました。こうして二つに分かれるくらいの大変革期が起こりました。
 
3)都市革命
 大河の流域で灌漑技術が発達して大規模農耕が可能となると余剰農作物が蓄積され、大規模灌漑のリーダーたる王を中心とした都市が形成されました。後には職業が分化し、祭祀を司る神官や、その道具を作る職人が出てくるようになり、国を管理するために文字も生まれ、このときに商人も誕生しました。なぜなら、村単位では農耕をして自給自足をしていますが、都市はネットワークによっていろんな奢侈品を交換していたからです。これにより都市はますます富んでいくということになります。つまり、文明で育まれる文字・宗教・神話・科学というものは、都市革命で生まれたのです。
 実はこの都市文明も環境問題や気候問題と無縁ではありません。それは世界的規模での乾燥化です。遊牧民が食料を得るために大河流域に入り、そこで農耕民と結合をしました。これも都市革命が起こった一つの要因です。
 
4)精神革命
 紀元前6世紀から1世紀は都市文明がどんどん発達した時期ですが、イスラエル・インド・中国・ギリシャでは、ほぼ並行して人間の精神的な内部の変革が起こりました。今までは外の変革だったものが、人間がこの世界をどういうふうにして認識して、そしてどのように生きたらいいかということを根本的に問う時代を迎えたのです。イスラエルではイエス・キリストのキリスト教が、インドでは仏陀の仏教、ギリシャではソクラテス・プラトン・アリストテレスといった哲学者が、中国では諸子百家を経て孔子が儒教を成立させました。つまり、4つの精神革命が同時並行で起こり、仏教と儒教は東アジアへ、キリスト教は西の方へそれぞれ精神文化を創っていきました。
 尚、第2次精神革命として、そうした内なる文化の伝播や融合が挙げられます。オリエントに起こったキリスト教をヨーロッパが取り入れ、仏教と結びついた中国では儒教や道教と結びついてきます。忘れていけないことは、その中間でイスラムの興隆があったということです。実はユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ系譜で信じている神様は一緒なのです。なぜなら、ユダヤ教はエロー神、キリスト教はエルという神様で、これはアラム語でどちらもエルと言います。キリストが張り付けで死ぬときに「エリー、エリー、私の神よ、私の神よ、なんであなたは私を見捨てるんですか。」と言い残したという記録があります。アッラーというのはイッラーに冠詞をつけただけなのです。このように、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、天使・地獄の考え方・最後の審判、全て一緒なのですが、困ったことに現代社会では争ってばかりです。
 
5)科学革命
 科学革命は、近代科学の成立です。これはヨーロッパだけに起こりました。この科学革命の系譜は、デカルトが考えた機械論的世界観から始まっています。この世界を機械として見るという考え方で、動物やなんかがみんな機械で、人間も体は全部機械ですが、そのほかに思考、考えるということがあるとしたものです。これは今の環境問題にそのまま結びつきます。なぜなら我々は生命のある世界の一員です。それにもかかわらず、世界を機械とみなして、ブルドーザーのごとく支配してきました。この系譜にフランシス・ベーコンがいます。ベーコンの考えは自然を支配して人間の利益をそこから引き出し、自然の上に人間の王国をつくるというものでした。その搾取され続けた自然が、今がらがらと音を立てて崩れていっています。ですから、これが今の環境問題と大きく関わっています。
 科学革命(第一の科学革命)が起きて産業化というアイデアが出て、1世紀遅れて産業革命(第二の科学革命)が起こり、物質エネルギーの効率的な使用と増大がどんどん進んでいきました。第三の科学革命がIT革命です。ここではエネルギーと物質の効果的な使用と増大というのではなく、情報の効果的な収集と、そのコントロールを行うというものです。
 
 
3.環境革命とは?
 
 環境問題は現代の抱えている諸々の問題の根源だと私は考えています。ですから、そこにおいて全てのもの、それらは科学技術・世界観や哲学・倫理学・経済学・政治学ですが、変わっていかなければならない。それが6)環境革命なのです。その中身を述べたいと思います。
 まずは科学技術ですが、これは一国の文化の中にあり、他の領域と結びついてきました。それが、科学革命以降は科学を他の文化から切り離して科学の専門化が行われました。これは技術者も同様です。そうこうしているうちに環境破壊が起こり、核兵器が作られたりと科学のマイナス面が目立ち、善悪が混在する諸刃の剣となりました。これは科学者・技術者の囲い込みを続けてきて、市民がそれを容認してきたためです。
 科学と言うのはサイエンスで、語源はラテン語のスキエンティア、スキオーという「知る」という動詞です。しかし好奇心の赴くままに何でも行うのではなく、そこで得られた知識を人間や地球の生に関われるようにわきまえなくてはいけません。この「わきまえる」はラテン語でサピオなので、サピエンティア、日本語に訳すと「叡智」になると思います。科学者はサイエンティストである前に、サピエンティストであるべき、つまり、サイエンティック・レボリューション(科学革命)からサピエンシャル・レボリューション(叡智革命)が行われてこそ、人間の生、地球の存立に深く関わる生存のための科学技術、地球のための科学技術という環境科学的な目的意識が前面に出てくると思います。
 次は世界観の変革の問題です。デカルトが唱えたように、17世紀の科学革命で生まれた世界観は、世界から生命を取り除いて機械として見なし、人間は考えもするが体は機械であるという思考でした。しかし、考えるという行為の前には、我々は世界について何かを感じ、その根底には生きているという事実があります。さらに、生きているということにつながる原体験があります。ですから、我々も本来は自然の一部なのです。自然支配について唱えたもう一人の人物はベーコンです。知識は力で、自然を力のある知で支配し、人間のために利用する権利を我々は神から授かっている。つまり、自然は人間が征服すべき対立者であるという思考です。ですから、我々人類は自然をコントロールしようとしましたが、実は自然の発展の中から生まれてきた自然の子孫なのです。
 新しい世界観とは、世界を機械として見るのではなく、世界を生きとし生ける生命として見るものです。そうしてこそ、共生と言う関係が自然に生まれてくると思います。生世界、バイオワールドの世界観です。
 最後は文明のあり方の転換です。文明とは生き方の様式です。かつてホワイトという文化人類学者が、「文明の高さとは、その構成員の一人当たりが使うエネルギーの消費量で決まる」つまり、一人一人がエネルギーを多く使っていれば、文明度が高いと唱えました。ところが、単に人間の消費するエネルギーの量や生産物の量の増大だけで文明の良さが測られるのかということが問題です。20世紀の初めから終わりにかけて、世界の人口は3倍に達しましたが、エネルギーの使用量は15倍、GDPは21倍になっています。これは世界の平均ですから、先進国は更に高いのです。
 20世紀の初め、1900年ごろはどういう文明の状態だったか。日本は中進国で、夏目漱石が「心」や「三四郎」を著した時代です。本の中身は、ナイーブな感情の世界、豊かな感情の世界が表されています。それに比べて現代社会は、人間の本性を深く理解せず、どれだけモノや便利なモノを持って使っているかということを尺度としています。福沢諭吉は「文明論之概略」の中で、「文明とは人の身を安楽にして、貧しさ、苦しさ、そういうものから安楽になって、同時に心を高尚にするものを言うなり。」と述べています。確かに身は安楽になりましたが心は高尚になったでしょうか。新聞の報道をみると、決してそうではありません。一方、彼はこうも述べています。「文明とは結局、知徳の進歩だ」とも。知は確かに進歩しましたが、徳は失われていっています。
 
 
4.未来の選択
 
 大量生産・大量消費・大量廃棄がいい文明であると昨今まで言われてきました。こうした物的な快適さの追求はとまることがありません。これは「もっともっと」の文明で、言い換えれば文明のアヘン効果だといえ、そのままでは止まらず、崩壊まで進みます。
 文明の崩壊については、2,050年が人類の分かれ目になるのではないでしょうか。日本の環境省、アメリカのワールドウォッチ研究所、その他たくさんのデータが2,050年を指しています。2,050年はそんな遠い先の話ではありません。それなのに例えば戦争など、局地的なことに知力・科学力を使うということが起こっています。地球の中で内輪もめをしている場合ではありません。もう一つ挙げるとすれば、今までは自然を改造しようとしてきましたが、改造しなければいけないのは、アヘン中毒に陥った人間かもしれません。
 さて、環境革命が今までの変革期と違うことは、初めて文明が文明を、自らが自らを抑制するということです。人間の生き方の変換なしに環境問題の究極の解決はできないと思います。それは、他人任せではない、自分自身のそれぞれの状況下における、主体的な選択の問題です。現状を嘆くのではありません。我々は未来を選択できるのです。地球と人類のよりよき未来を求めつつ、新しい文明を構築する、それが環境文明なのです。
 これまで述べてきたように、今までの変革期には先駆的な地域がありました。しかし、今までの変革期で日本は未だリーダーシップを握ったことがありません。環境革命では、我々日本が拠点となり世界中の人たちと一緒に協力し、努力していこうではありませんか。