2004年度 市民のための環境公開講座
   
パート4:
環境問題の根源を学ぶ
第2回:
環境問題への歴史学的アプローチ:とりわけ西方ユーラシア史の視点から
講師:
羽田 正氏(東京大学 東洋文化研究所教授)
   
講師紹介
羽田 正 氏
1953年7月9日大阪生まれ。1976年京都大学文学部卒業。
現在、東京大学東洋文化研究所教授、東京大学日本・アジア教育研究ネットワーク(ASNET)推進室長を併任。
現在の研究テーマは、17-19世紀アジア諸地域の港町における異文化交流の比較、環境史を組み込んだ新しい世界史叙述の方法、現代における世俗主義。
主な編著書:『成熟のイスラーム社会』(共著)中央公論社、1998年、『イスラーム世界の創造』東京大学出版会、2005年
 
はじめに
 
 環境を歴史学の視点から論じた本として、石弘之氏、安田喜憲氏、湯浅赳男氏共著の『環境と文明の世界史』(洋泉社、2001年)がある。環境を軸にしていかに人間の歴史を書き直せるかという点について、3氏が対談形式で語り合っている。また、アメリカの生態学者、ジャレッド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』(1999年)は、地球創生以来、現在に至るまでの地球と人間との関係を軸に世界史を考えるという内容だ。それぞれ共感を覚える部分もあったが、我々が歴史学の対象としている西洋のギリシア、ローマ、中国の殷、周、日本の弥生以降などの記述になるとなぜか違和感を覚える。 その違和感とは、一口でいうと、これらの著者が既存の歴史学の枠組みをそのまま使って環境史を描こうとしている点にある。既存の歴史学の枠組みの一つとして、「イスラーム世界」についてまず考えてみる。
 
 
「イスラーム世界」とは何か?
 
 「イスラーム世界」という言葉はマスコミ、研究者などの間で多用されているが、正確な定義は難しい。一番分かりやすいのは、世界の国々の中でイスラームを重要な要素だと考えている60弱の国が集まって国際組織を作っているイスラーム諸国会議機構という枠組みである。この場合は地理的にどこが「イスラーム世界」だと示すことができる。また、住民の多数がイスラームを信じている人(ムスリム)である国が「イスラーム世界」であるという考え方がある。この区分は曖昧ではあるが、やはり地理的に表すことは可能である。一方で地理的に規定できない考え方もある。全世界にいるムスリムが集まってつくる、頭の中での共同体、これが「イスラーム世界」だという考えである。一般的に「イスラーム世界」として中東がイメージされるが、それは正確ではない。
 
 多数の定義があり、メディア等で使われる「イスラーム世界」が、どれを指すのか分からない。それぞれが自分でイスラーム世界について頭で思い描いてその言葉を使い、お互いわかったつもりになるが、実際にはわかっていない。このような地理的に非常にわかりにくい言葉を使って、国際関係や様々な事件に関する解説がなされるのは、不適切ではないだろうか。
 
 そこで、「イスラーム世界」という言葉の起源について調べてみた。そもそもムスリムは「イスラーム世界」という言葉を地理的な意味で使っているのだろうか。前近代18世紀よりも前の段階で、ムスリムが「イスラーム世界」という言葉を使うケースは非常に限られている。前近代のアラブ系の一部の人たちは、「ムスリムの支配者が統治する領域」、つまりムスリムが統治し、イスラーム法が力を持っている地域という意味でこの言葉を使っていた。また、世界をイスラーム世界と非イスラーム世界の二つに分け、ムスリムの支配者が支配している地域を「イスラームの家」、それ以外の国はすべて「戦争の家」とする、二項対立的な考え方もあった。これらの考え方は私たちが現在考える「イスラーム世界」の定義とは異なる。
 
 我々が現在使っている「イスラーム世界」という言葉は、19世紀のヨーロッパで生まれた。当時のフランス人歴史家のエルンスト・ルナン(Erneste Renan)は、著書『イエスの生涯』で、イエスが人間としてどう生きたかを描き、同時代の多くの人々に読まれた。それまで、イエスは神であり、人間として考えられたことはなかった。ルナンは、一般に宗教は前近代的で、社会全般に影響を与えるべきではないと考えた宗教学者である。イスラームについては、「教育や個人の資質に関係なく、神がよいと思う人に幸運と権力を授けると信じ込んでいるため、ムスリムは教育、科学、ヨーロッパ精神を形成するものすべてを深く侮蔑している。イスラームの信仰によってたたき込まれたこの癖は非常に強力で、人種や国籍の違いはイスラームへの改宗によってすべて消失してしまう。」(1883年)と記している。注意すべきは、18世紀の段階ではこのような考えは全く出てこない点である。18世紀には漠然とヨーロッパの東の方をオリエントと捉えていたが、イスラーム教徒でも、それぞれの国や民族ごとに把握しており、宗教によって一括りにするという考え方はなかった。19世紀になり、突然「イスラーム世界」として捉えるようになったのは、その言葉がちょうど「ヨーロッパ」という言葉の反対の意味を持ったからである。
 
 我々が現在使っている「イスラーム世界」という言葉は、19世紀のヨーロッパで生まれた。当時のフランス人歴史家のエルンスト・ルナン(Erneste Renan)は、著書『イエスの生涯』で、イエスが人間としてどう生きたかを描き、同時代の多くの人々に読まれた。それまで、イエスは神であり、人間として考えられたことはなかった。ルナンは、一般に宗教は前近代的で、社会全般に影響を与えるべきではないと考えた宗教学者である。イスラームについては、「教育や個人の資質に関係なく、神がよいと思う人に幸運と権力を授けると信じ込んでいるため、ムスリムは教育、科学、ヨーロッパ精神を形成するものすべてを深く侮蔑している。イスラームの信仰によってたたき込まれたこの癖は非常に強力で、人種や国籍の違いはイスラームへの改宗によってすべて消失してしまう。」(1883年)と記している。注意すべきは、18世紀の段階ではこのような考えは全く出てこない点である。18世紀には漠然とヨーロッパの東の方をオリエントと捉えていたが、イスラーム教徒でも、それぞれの国や民族ごとに把握しており、宗教によって一括りにするという考え方はなかった。19世紀になり、突然「イスラーム世界」として捉えるようになったのは、その言葉がちょうど「ヨーロッパ」という言葉の反対の意味を持ったからである。
 
 ヨーロッパでこのような考え方が生まれた時代に、人々は自分たちの外に全く異質の世界があることに気づいた。科学を認めず、進歩せず不自由で、宗教が大きな社会的影響力を持つマイナスの空間、すなわち「イスラーム世界」である。「イスラーム世界」という言葉とその意味は19世紀ヨーロッパが作り出したイデオロギーなのである。
 
 また、『アメリカの民主主義』を著した評価の高い批評家、政治家であるアレクシス・ド・トクヴィル(Ale´xis de Tocqueville)は、すでに1840年代に「イスラーム世界」という言葉を使っている。彼によれば、イスラームという宗教自体が問題であり、この宗教ゆえに「イスラーム世界」は多くの問題を抱えているのだと言っている。このような考え方が人々の間で次第に力を持つようになり、マイナスのイスラーム世界というイメージが根付いていった。この場合も、やはり地理的には明確に「イスラーム世界」を規定できない。そもそも、「ヨーロッパ」も地理的に定義されたものではなく、プラスの価値を実現していると想定される頭の中の地域にすぎない。
 
 また、この考え方とは反対に、プラスの「イスラーム世界」という考え方もほぼ同じ時期に生じていた。ルナンと同時代のアフガーニーは、イスラームを核にし、世界中のムスリムがその下に集まって植民地主義のヨーロッパに対抗しよう、あるいはヨーロッパに対抗する旗印としてイスラームを掲げようと唱えた。このような考えを持つ人々をイスラーム主義者と言う。19世紀は、パン・ゲルマニズムやパン・スラヴィズムなど、国民国家づくりがはやっていた背景があり、イスラームを信じる人たちは一つの国民になるべきだという考えも自然に出てきた。この場合も、理念的な意味での「イスラーム世界」であり、境界線がなく、地理的に示すことはできない。
 
 このように「イスラーム世界」という概念が人々の頭の中で形成されると、その歴史を描こうとする動きが出てきた。19世紀は歴史学の時代である。歴史学の父、ランケの『世界史概観』もこの頃記される。「過去をあるがままに見る」というランケの歴史学の研究方法は現在まで受け継がれている。しかし、『世界史概観』は、ほとんどヨーロッパ史の概観にすぎない。当時歴史は進歩する場所にしか存在しないと考えられ、従ってヨーロッパ史が世界史だと考えられたのである。そこには、日本の歴史も「イスラーム世界」の歴史もまったく組み込まれていない。歴史学者とは基本的にヨーロッパの歴史を研究している人たちのことだった。日本やイスラーム世界について研究する人たちは東洋学者と呼ばれ、歴史学とは別の学問ジャンルに属していた。しかし、東洋学者の間で、「イスラーム世界」の歴史を書こうという動きが生じ、19世紀終わりにアウグスト・ミューラーによって初めての「イスラーム世界」通史が記された。この本は、ムスリムの君主により治められている地域が「イスラーム世界」であるという古典アラビア語歴史書の考え方に基づいて書かれている。このような歴史理解はそれ以来現代まで続いている。そして、今日の日本では「イスラーム世界」は、世界史の一部と考えられるようになった。これは大きな問題である。
 
 なぜなら、プラスであれマイナスであれ、「イスラーム世界」とは、19世紀の人々の持ったイデオロギー的な空間でしかないからである。この言葉でくくられた空間で起こるあらゆる現象は、イスラームという宗教に結びつけられる。「ヨーロッパ」に対する二項対立的なイデオロギーによって創造された仮想空間では、環境の要素は全く考慮されない。
 
 19世紀、ヨーロッパでは、エネルギーや自然環境が有限であると考える人はおらず、大量のエネルギー資源を使って文明が発展した。その当時、環境は当然そこにあるものとして全く意識されず、歴史を描く際の重要な要素とは見なされなかった。ランケの『世界史概観』も、人間が進歩する中で、周りの自然とどのような関係を取り結んだかについては触れられていない。「イスラーム世界」の歴史の場合も同様である。
 
 
日本での「イスラーム世界」概念の受容
 
 私は現在の日本の世界史教育に問題を感じている。我々が「イスラーム世界」という言葉を使い出したのは1930年代である。これより前の時代の地理の教科書を調べると、ほとんど欧米のことしか書かれておらず、アジアも中国、東南アジアくらいまでのことしか扱われていない。世界史は、戦前は中学で教えられており、東洋史と西洋史に分かれていた。このようになったのは、1800年代の末、日清戦争が終わった頃である。桑原隲蔵は『中等東洋史』の中で、西方アジア史は「寧ろ欧州の大勢と分離すべからざる関係を有するが故に、東洋史の範囲以外に在り」と述べ、西アジア史はヨーロッパの歴史と非常に関係が深いので、東洋史で扱わないと言っている。当時イスラーム教は西洋史の叙述の中でごく一部に登場する程度で、日本人はイスラーム教についても「イスラーム世界」という言葉についてもほとんど何も知らなかったのである。
 
 ところが、1930年代の半ばに突然「回教圏」という言葉が使われはじめる。大久保幸次、小林元共著『現代回教圏』(1936年、四海書房)が最初の例である。1905年、日本が日露戦争に勝ったため、欧米列強に対抗できるのは日本だけだと目されるようになった。以後、イスラーム教を中心に据えて欧米の植民地主義に抵抗するため、日本を何人ものパン・イスラーム主義者が訪れ、イスラーム教を広めようとした。日本全体でこの言葉が使われるようになるのは、1930年代、中国との戦争が始まる時期である。中国西北部には多くのイスラーム教徒(回族)がおり、日本の軍部は彼らに反乱を起こさせることによって中国政府を倒してしまおうと考えた。このため、当時の日本政府は、回族やムスリムの信仰、考えや行動様式を知り、外交手段を探るため、予算を注ぎ込んで積極的に回教(イスラーム教)の研究を推進した。その結果、回教研究がブームとなり、1938年には回教圏研究所、大日本回教協会など多くの組織ができた。回教圏研究所の設立趣旨・要旨に「回教徒は単なる教団、信徒群ではない(中略)民族団体だ」と記されており、イスラームは一つの宗教民族だと考えられたことが伺える。回教はアジアの宗教であり、アジアは一つだ、欧米に苦しめられている回教民族はみんな日本の方を向いているので、日本が協力し援助せねばならない、という論理が考え出された。かくしてイスラーム教とアジアが結びついた。西アジアは東洋の一部である、アジアは一つなのだから、イスラーム世界も含むアジア史が構想されねばならないと考えられるようになった。
 
 戦後は日本史、東洋史、西洋史の他にさらに世界史という教科が生まれた。文部省の策定した学習指導要領を見ると、どのような教育が目指されてきたかがわかる。昭和31年(1956年)から「イスラーム世界」の歴史を教えることが高等学校世界史の指導要領に記され、それは今日まで変わらずに続いている。ほとんどの人が高校で「イスラーム世界」とその歴史を学んでいる。現在の世界史の教科書では、中世ヨーロッパ、中国、インド、イスラーム世界など、前近代の世界各地をいくつかの文明圏に分け、それぞれの特徴と歴史が記されるのが通例である。この50年の間に「イスラーム世界」という言葉は文明圏の一つとして完全に日本人の知識の中に定着した。
 
 日本では当たり前の「世界史」は、世界的には非常に珍しい科目である。世界史の授業を中等教育で行っている国は、私の知る限り東アジアの一部を除いてはほとんどない。ヨーロッパや中東で教えられている高等学校の科目名は「歴史」であり、その内容はほとんど自国史である。ヨーロッパでは自国史以外にヨーロッパ史をある程度教えるが、生徒が日本やアジアの歴史を体系的に学ぶことはない。イラン、トルコ、エジプトなどの中東地域でも、教えられるのは自国史であり、何よりも「イスラーム世界」史は教えられていない。世界中で「イスラーム世界」史を50年にもわたって教え続けている国はおそらく日本だけだろう。実は世界的にめずらしい地域概念と文明史を私たちは学んでいるのである。
 
 
世界史の書き直し
 
 「イスラーム世界」という考え方は19世紀に創造されたイデオロギーで、プラスにせよマイナスにせよ、バイアスを持っている点が問題だ。この枠組みでどのように歴史を描こうとも、そのバイアスからは抜け出せない。
 
 私が『環境と文明の世界史』に対して抱いた違和感は、著者たちがイスラームやヨーロッパ、中国など、現在我々が歴史学で普通に使用している地域設定、文明圏という考え方、言葉をそのまま使って環境史を説いていることにある。「ヨーロッパ」や「イスラーム世界」は政治的なイデオロギーであり、環境を考慮した上で創造された概念ではない。このような概念を使って記された歴史は、すでにあらかたその役割を終えているのではないか。ところが、『環境と文明の世界史』では、依然としてこれらの概念を用いて、環境史を描こうとしている。先史時代については、我々は歴史学の用語をほとんど持たないので、ある時期に氷河期から間氷期に入ったことや、いまから1万2千年ほど前に人類がベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に渡ったことなどが記されていても、それらに特に問題は感じない。しかし、それ以降の歴史学が扱う時代に関して、既存の歴史学の用語によって、例えば、何世紀に「イスラーム」がこのような交流をしたのは環境とこういう関係がある、「中国」で環境を重視しなかったためにこのような事件がおこった、などと記されることには異論がある。
 
 これは『環境と文明の世界史』の問題というよりは、歴史学そのものの問題である。私は、いまや世界史自体をすべて書き直すべきだと考える。現在私たちが知っている世界史は、環境という要素を無視して地域や時代を区分しているので、その区分に従って環境の歴史を記そうとしても無理がある。現在の世界史の認識方法や教科書の書き方を一旦捨て、もう一度人間の歩んできた歴史を一から書き直さないと、環境問題を抱えて生きている現代の私たちに必要な世界史は書けない。大学受験の世界史といえば、ほとんど年号や固有名詞の暗記だ。これは大学に入って歴史研究をやる人にしか役立たない。このような試験はもうやめてもよいのではないか。人間全体を視野に入れ、我々が周囲の生態環境といかにつきあいながら、現在のような生活環境を生み出すに至ったのかを理解できる歴史を書くべきだ。そのためには、これまで私たちが使ってきた歴史学の用語を一度捨てる必要がある。
 
 例えば、「ヨーロッパ」という概念はかなり曖昧なものである。現在、地理的な意味でのヨーロッパの東の境界はウラル山脈のあたりだが、それは18世紀になってできた考えで、この言葉を生み出したギリシア人たちは、黒海に流れ込む川を境界としていた。「ヨーロッパ」という言葉がプラスの概念を持つようになり、ロシアが自分たちもそこに入るべきだと主張し、境界が移動したのだ。様々な自然環境や文化がこの地理的領域に含まれるので、環境史的にはこれらすべての地域をひとまとめにして「ヨーロッパ」と考えること自体に無理がある。ヨーロッパやイスラームなど宗教を単位とする区切りではなく、人間の自然との関わり方、自然環境、地理的環境を考えれば、それなりの区分方法が浮かんでくる。
 
 例えば、北西ヨーロッパは一つの地域として考えられる。ある時期までこの辺りは森に覆われ、とりわけ長い冬は暗くて、地中海世界とは大きく異なった風土を有していた。また、現在「中東」として一体と見られている地域も、ユーフラテス川が大きな境界となり、西側(シリア、イスラエル、レバノン、ヨルダンなど)は地中海性気候であるのに対して、東側のイラン高原、アナトリアの辺りは遊牧をする人たちが多く、生活形態から人々の考え方まで違う。この辺りからモンゴル、中央ユーラシア高原に至るまでは、遊牧の民が住んでおり、生活環境、自然との関わり方に重点を置くと、この広い地域が一つの地域世界とも考えられる。このように、人間と自然とのかかわり方の違いをもとに地域を設定してこれからの世界史を考えた方がよいのではないか。
 
 19世紀につくり出された「イスラーム世界」というイデオロギーは、政治的には意味があるが、そのように世界を区分してみることによって、私たちはその地域に住む人たちの多くの意志に関わりなく、外から「イスラーム世界」を実体化しようとしているのではないか。現地の人たちが学校で「イスラーム世界」の歴史を習わないのに、私たち日本人はそれを学び、「イスラーム世界」の存在を疑わない。自然や環境などを全く無視してイスラームという宗教で地域を区分し、ムスリムを一括りにして歴史をつくり、「イスラーム世界」ではこう言われている、イスラームの人たちはこう考えている、というように本質主義的な現状分析を行っている。このために起こってくる誤解や問題は数多いのではないだろうか。
 
 その一番大きな原因は、日本の高校で50年にわたって「イスラーム世界」という言葉とその歴史を教え、人々の頭にこの語を染み付かせてきてしまったことだろう。高等学校を出た後も、マスコミなどで「イスラーム世界」について報じられると、高等学校の歴史で学んだ宗教的な「イスラーム世界」と現在の「イスラーム世界」が結びつく。実態を詳しく知らずに報道される情報をただ聞いているだけでは、現在の「イスラーム世界」はイスラームという宗教が非常に強く、国民全部がムスリムで敬虔な宗教的生活を送っていると思ってしまう。しかし、現地に行けばわかることだが、実際にはそこまで宗教的な生活をしている人たちはごく少数である
 
 私はこのように19世紀の名残をひきずる世界史とその教育はもう終わりにしたい。そのためには現在の学習指導要領をすべて書き直さなくてはならないだろう。日本の世界史の書き方、教え方の大筋は50年以上も変わっていないのである。もっと現在の私たちにとって重要な問題が理解できるようにしなくてはならない。それは間違いなく環境の問題だ。イスラーム世界ではなく、環境の問題が頭に入るような世界史叙述を実現したい。しかし、これは一人で取り組めることではなく、社会運動に発展させなければ文部科学省は動かない。また、既存の歴史学だけでは力が足りない。理系を含む様々な分野の研究者の力を借りた共同研究を一歩一歩進めていかなくてはならない。このような歴史づくりにこれから取り組んでいきたい。