2003年度 市民のための環境公開講座
   
パート1:
日本人と自然
第4回:
日本人と自然−過去・現在・未来
講師:
C.W.ニコル氏
   
講師紹介
C.W.ニコル氏
作家。1940年7月17日、英国ウェールズ生まれ。17歳でカナダに渡り、その後、カナダ水産調査局北極生物研究所の技官として、海洋哺乳類の調査研究にあたる。1967年より、2年間、エチオピア帝国政府野生動物保護省の猟区主任管理官に就任。シミエン山岳国立公園を創設し公園長を務める。1972年より、カナダ水産調査淡水研究所の主任技官、また環境保護局の環境問題緊急対策官として、石油、化学薬品の流出事故などの処理にあたる。1980年長野県黒姫に居を定め、以降、執筆活動の傍ら、自ら荒れた森を購入し、生態系の復活を試みる作業を16年続け、2001年にNPO「アファンの森基金」を設立。翌2002年財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団を設立。
 
1.はじめに
 
 英国ウェールズの炭坑の町で生まれ育ち、17歳から世界中を旅して自然を回復させるために闘ってきたニコル氏。旅の途中で出会った日本の自然の素晴らしさに感動し、やがて日本に根を下ろすことを決意する。日本へのお返しの気持ちをこめて、執筆活動の傍ら、少しずつ森を育て、広げてきた。そんな二コル氏から、日本の自然についてメッセージをいただきます。
 
 
2.本文
 
 僕が日本に初めてきたのは今から41年前で、22歳のときだった。
 初めてかんじきを履いて冬の原生林を歩いたとき。一緒に案内してくれた先輩達は慣れていたが、深い雪や急な斜面は、僕にとっては挑戦だった。日本人が強いのは、日本の自然があったからだと思った。初夏のブナの原生林を歩いたとき。どこからとも流れる水の音、小鳥、ブナ林の間にさす光、思わず立ち止まって泣いた。巡礼の道を歩いているようだった。
 僕は暇さえあれば 山や島を旅した。日本の田舎、カントリーカルチャーは素晴らしいものだった。沖縄から北海道までその地域ごとに、日本人の生活が異なり、僕は感動した。民宿ではイワナやヤマメなどの川魚を食べた。英国では、新鮮な生の魚を食べられるのは貴族などの限られた人々だけである。日本の田舎では、イワナ、イノシシ、ウサギ、キジを食べることは当然のこと。キノコやヤマイモも天然のものをいただく。とても素晴らしいことだと思う。
 日本の自然が育てた文化は今どうなっているのか?
 アメリカの雑誌「ニューズウィーク」によれば、今日本にはダムが2800もあり、これからも数百のオーダーでつくる予定があるという。高速道路の建設もある。日本ではこの20年間でアメリカの30倍の大量のコンクリートが使用されているという。
 カナダでは、山に林道を作るとその上部も下部も自然がだめになるからと、今は、林道を山に戻している。森を崩してから育てなおすには70年もかかるという。
 僕は、海外のメデイアには「日本は最も醜い国になっている」と書かれているのだと思う。今の日本の人たちは、自然や山を知らなさ過ぎるのだ。
 僕は猟友会に入って、先輩たちからいろいろなこと教えてもらってきた。クマにも出会った。ところが最近では、クマが町まで降りてくると、有害駆除ということで射殺されている。僕にとってはかなりショックなことだ。1980年代のバブルの時代の頃、金儲けに目の色を変えて、ゴルフ場やスキー場の建設のために、山を開き、樹齢を重ねた森の木々が次々に切り倒され、日本各地で自然破壊が進んだときには、僕は心底、絶望しかけた。
 その頃、僕は一度ウェールズに帰り、故郷で森の再生にかける人々の努力と情熱を目の当たりにした。そこで、僕もこれから心から愛する日本のために力を尽くそうと決心した。そうして僕は長野県黒姫の土地を買い求め、「アファンの森」と名づけて保護活動を始めたのだ。
 本来、人もまた自然の一部。畏敬の念をもって自然に接し、その恵みに感謝する、それが原点だ。森を守り育むために、僕達は文字どおり手をかけている。この仕事は、手間を惜しんではできない。永遠に続く。僕が世を去った後も、この森が永く生きつづける。そう思うことで心がどれほど穏やかになることか。これからも森の再生のために、さらに知識を深めて、生物多様性を高め、森を豊かにしていくつもりだ。