2006年度 市民のための環境公開講座
   
パート4:
環境問題の根源を学ぶ
第3回:
キリスト教と環境
講師:
瀬本 正之氏
   
講師紹介
瀬本 正之氏
上智大学 文学部人間学研究室 教授
1953年岡山県生まれ。1975年京都大学理学部数学科卒。数学教諭を務めた後、カトリック修道会イエズス会に入会。上智大学で哲学と神学を学び、1985年からカトリック司祭として働き始める。ウエストン神学校(在ボストン)で神学を続ける中、フェミニズムやプロセス思想と対話しつつ、人間学的な教育・研究を準備。帰国後、上智大学に奉職。環境倫理を切り口の一つにしながら、現代における人間的課題/責任の自覚の涵養を志す人間学研究室の一員として働いている。
 
 
1.キリスト教への嫌疑
 

 “もしこの世にキリスト教が無ければ、環境問題は起きなかったのでは?”という嫌疑が、リン・ホワイトの『機械と神−生態学的危機の歴史的根源−』(みすず書房 1999)の中にも窺(うかが)えます。


「キリスト教の、特にその西方的な形式は、世界がこれまで知っているなかでももっとも人間中心的な宗教である。」(87頁)


 このキリスト教の人間中心主義の中に「環境問題の元凶」を見出す人が少なくないようです。「一人ひとりの人間は神のかたどり(Image of God)として創られているので、決して人を粗末に扱ってはいけない。」とキリスト教は訴え続けてきました。「人間が特別の存在である。」ということを、キリスト教は世の終わりまで主張し続けるでしょう。


「近代的な西欧科学はキリスト教神学の母体のなかで鋳造されたのである。ユダヤ=キリスト教の創造の教理によって形作られた宗教的献身のダイナミズムこそ、それにはずみを与えたのである。」(91頁)


 現代は科学と技術が一体になって物事が進み、私たちはそれから逃れて生活することはできません。「このような科学と技術の一体化は西欧で生じ、他の地域には見られない。」とよく指摘されます。キリスト教があったからこそ一体化出来たという彼の見解はもっともだと私も思います。


「わたしは個人的には、不吉な生態学上のきしみが単に、より多くの科学とより多くの技術をこの問題に適用するだけで避けられるとは思っていない。われわれの科学と技術とは人と自然の関係に対するキリスト教的な態度から成長してきたものである。」(92頁)

「われわれが生態についてなにをなすかは、われわれが人間=自然の関係についてもつ考えに依存している。さらに多くの科学も、さらに多くの技術も、われわれが新しい宗教をみつけるか古い宗教について考え直すまでは、いまの生態学上の危機からわれわれを救い出してくれそうにない。」(92-3頁)


 自然に対する人間の関わり方の根底には宗教的な基層があるので、科学や技術をいくら進展させても、その基層へ降りていかない限り、環境問題の真の解決はないということでしょう。私も同感です。「キリスト教が自然に対して持っている態度を見直すべきだ。」という主張も肯けます。ただし、「見直す」という言葉の意味も「見直す」方がよさそうですが。
 「キリスト教が西洋の経験によって深く条件づけられているのと同様に、アジアの歴史によって深く条件づけられている」(93頁)いわゆる東洋の宗教は、「われわれ(引用者注:西洋の人々)の間でも有効であるかどうか、たいへん疑わしいのである。」(93頁)というホワイトは、そう単純に、「東洋は環境にやさしく、西洋は環境にやさしくない。」と考えているわけではなさそうです。

 西欧では、ギリシャ時代から、「森羅万象」を知の対象とする「科学的」な態度が育まれてきました。このような学究のまなざしが人間である自己そのものにも向けられるのはとても自然なことであり、西欧文化が「自己批判的」な性格を色濃く持つようになった一因だろうと私は考えています。加えて、キリスト教は、その自分自身を「神の前で問われる」存在として据え直します。
 行過ぎた人間中心主義や自然との歪んだ関わり方についての咎めを回避しがたいキリスト教の中にも、それらを克服させてくれる契機があるとして、ホワイトは、アシジの聖者フランチェスコに触れています。


「フランチェスコを理解する鍵は、個人としてだけでなく類としての人間に対する謙遜の徳への信念である。………神のすべての被造物の民主主義を築こうとした。………それらは兄弟蟻であり姉妹火であり、それぞれにそれぞれなりのやり方で、……神を讃えているのである。」(93-4頁)


 人間だけではなく、ありとあらゆる被造物が神を讃えているということです。ホワイトは、ここで、聖フランチェスコを後ろ盾に「人間を超えた民主主義」を提唱しているようにも思えます。


「しかしフランチェスコ自身は魂の転生説も汎神論もとっていたわけではない。かれの自然および人間観は、超越的な創造主の讃美を目指した、生物も無生物もすべて一種独得の全心説に基づいていた。」(94-5頁)


 ちなみに、全心説とは、「すべて(pan)のものに魂(psyche)が宿っている。」というものの見方(Pan‐psychism)のことでしょう。ホワイトは、「技術と科学の成長は、キリスト教の教義に深く根ざす自然に対する特別な態度というものを度外視しては、歴史的に理解のできないものである。………自然は人間に仕える以外になんらの存在理由もないというキリスト教の公理が退けられるまで、生態学上の危機はいっそう深められ続けるであろう。」と警鐘を鳴らしつつ、フランチェスコに立ち返るよう、訴えています。


「西欧の歴史上の最大の精神革命、聖フランチェスコは、かれが自然および自然と人間との関係についてのもう一つ別のキリスト教的見解と考えていたものを提案した。かれは人間が無際限に被造物を支配するという考えにかえて、人間をも含むすべての被造物の平等性という考えをおこうと試みた。」(95-6頁)


 ホワイトは、「われわれの苦しみの根が深く宗教的である以上、……その救済手段もまた本質的に宗教的でなければならない。」(96頁)としていますが、私も同感です。正統派から異端のように扱われてきた(と彼が理解する)聖フランチェスコの考え方に立たなければ、キリスト教は環境問題に答えることが出来なくなるということのようです。

 
 
2.カトリック教会の社会教説
 
 人間は、歴史の中で、社会を組織し、社会生活を営んできましたが、その過程でいろんな問題を生み、課題を抱えてきました。ヴァティカンの教皇庁・正義と平和・協議会から2004年に公刊された『教会の社会教説の大要(Compendium of the Social Doctrine of the Church)』は、そのような現代の社会問題や人類共通の課題に対して、キリスト教信仰を土台にして解決への道を示唆しようするものです。その第10章は「環境を守ること(Safeguarding the Environment)」で、主な内容は以下の通りです。
 
  1. 聖書的な側面:環境を守ることの根拠付けや動機付けを、聖書の中に、探ります。
  2. 人間と被造物の世界:神が望まれる人間のあり方、被造物の本来のあり方、そしてその間の関係を問い直します。
  3. 人間と環境との関係性における危機:環境問題は「人間と自然の関係」がおかしくなっていることです。そして被造界では人間だけが「関係そのものを変える」ことができます。ですから、その関係を改善する責任は、私たち人間にあります。
  4. 共同の責任:皆で一緒に取り組まなければ担い得ない大きな責任だという意味ばかりでなく、そもそも人類の一員である以上、誰一人、環境問題に纏(まつ)わる責任を回避できないということをも意味します。
 
 以上、とても大雑把な概要でした。教会は、環境問題を、人間が造った社会の中で生じた問題、すなわち社会的な存在である人間自身の問題、社会問題と捉えています。(環境問題を含む)社会問題を扱うときの原理/原則は、同書の第4章で整理されています(以下のT〜[)。これらは、カトリック教会があらゆる社会問題に対処するときの根本姿勢であり、キリスト教信仰に基づく神学的な考察に依拠しています。
 
  1. 意味と一致(Meaning and Unity):人間は、意味(Meaning)を理解しようとする存在です。理解した意味を伝え、共有することなしに、人間的な一致(Unity)はあり得ません。国家権力による強制や技術力への無批判な依存によって問題を解決しようとするのは、(意味を求める)人間にふさわしいやり方ではありません。とても厄介で徒労に終わる場合もあるという事実をわきまえながらも、最後まで、「意味を伝え、理解を求める」努力を放棄してはなりません。
  2. 共通善の原理(Common Good):私たちは、自分の属する共同体が何であれ、一段上のより大きな共同体の肢体(生きた部分)として、他の肢体と共通に享受できる善を目指すように働かなければなりません。たとえば、会社は社会の共通善のために、日本は国際社会全体の共通善のために秩序付けられているということです。
  3. 物財の普遍的な用途性(The Universal Destination of Goods):何日も食べていなくて死にそうな人が、(傍にいた)私の弁当に気付いたとしましょう。その人が、藁をもつかむ思いで、最後の力を振り絞って手を伸ばし、私の弁当を取って食べたとしても、簡単に盗みだと決め付けるわけにはいきません。なぜなら、食べ物は生命のためにあるからです。食物は生命に属しており、資源は全世界の人たちが人間らしい生活をするために与えられています。これがUniversal Destination(普遍的な用途性)です。
  4. 補助性の原理(Subsidiarity):上部組織は、下部組織の自立性や創造性、士気や責任感を損なうことなく、却ってそれらを支援し強化し活性化する条件を整えることを旨とし、不当な介入をするべきではありません。
  5. 参与(Participation):人間として生きるということは、自分の認識と意志を働かせながら、自分が出来る善きことを通して、皆の善のために寄与する責任を分かち持つ(参与する)ということです。そのため、国家等の統治機関は、全構成員各人が喜んで精一杯参与できるよう、種々の社会的条件を整える義務を有し、その責任を問われることになります。
  6. 連帯の原理(Solidarity):或る事を或るやり方で進めていくと関わっている人々がバラバラになっていくとすれば、どこかで何かが間違っているからではないでしょうか。事を進めて行くほどに皆が結ばれていく(=輪が広がり絆が強くなっていく)はずではないでしょうか。一人ひとりの「人格」と「人間性」を大切にしない「連帯」など形容矛盾です。
  7. 社会生活の基本的な諸価値(The Fundamental Values of Social Life):「制度としての民主主義は自らを根拠付け得ない。」と指摘されることがあります。民主主義に限らず、人間らしい政治/社会システムとは、そこに属する一人ひとりが「真理」、「自由」、「正義」を追求していくのをサポートするものでなければなりません。このような基本的価値を求め続ける個々人の努力がなければ、遅かれ早かれ、人間らしい社会は崩壊していくでしょう。
  8. 愛の道(The Way of Love):(十字架のキリストを原型とする)「ゆるしの愛」を根底に置いて生きていくことです。とかく、私たちは、自分の力を誇示し、相手を打ち負かしてやろうとします。揚句の果ては、敵/味方のいがみ合いを再生産する悪循環に陥ってしまいます。罪深い私たち人間に差し出された「(ともに)生きる道」はそのような愛ではないでしょうか。
 
 環境を守るときにも、カトリック教会はこうした原理を持って考察し、行動します。ちなみに、人工的な人口抑制策に反対するカトリック教会の(環境問題とも深く関わる人口問題に関する)立場も、こうした根本的な原理に基づいているのです。
 
 
3.「神と人と自然」の和解としての修道生活
 
 聖母訪問会というカトリック女子修道会では、最近、三浦海岸にエコロジーを意識した新しい修道院を建て、そこでシスター方の共同生活が始まりました。2002年の総会で採択された宣言(「私たちは、神から創られた“いのち”のいとなみに立ち返り、すべての生命との共生の価値に目覚めた礼拝と愛の交わりを生きる」)に基づいた取り組みの一つだということです。
 修道生活の根本は「神と人と自然」の和解を生きることだとも言えます。環境問題が叫ばれる昨今、修道生活は根本に立ち返る機会に恵まれていますが、これまでと全く違った新奇なことをしようとしているわけではありません。科学技術が大いなる威力を持つこの時代にこそ、「神と人と自然」の和解という明確な意図を持って生活することは、意義深いことではないでしょうか。
 
 
4.祈りにおける神・人・自然
 
 繰り返しますが、信仰の世界の醍醐味の一つは、自然と人間そして自然と人間を超えた何か、その三つ巴(みつどもえ)の和解の実感です。キリスト教は、名状し難い神秘である神を親しく「あなた」と呼べる方として礼拝し、そのような神の前での責任を自覚しつつ人生を歩みます。カトリックの礼拝の中心は「ミサ」ですが、その式文の中に下記の「叙唱(年間主日四)」があります。神の創造のみわざである自然界のことが美しく謳われている祈り文の一つとしてご紹介します。

聖なる父 全能永遠の神、あなたの偉大なわざをたたえ、感謝の祈りをささげます
あなたは天と地とそこにあるすべてのものを造り、昼と夜、季節と年が巡るようお定めになり、
またご自分に似せて人を造り、全世界を人の手におゆだねになりました。
こうして人は造られたものをすべて支配し、
主・キリストによっていつもあなたの偉大なわざをほめたたえるよう召されています。
すべての天使とともに、わたしたちも喜びの声を合わせ、あなたをたたえて歌います。


 次に、アシジの聖者フランシスコの作とされる「兄弟なる太陽の賛歌」(現代カトリック思想叢書16 エリク・ドイル 『現代に生きる「太陽の賛歌」』 サンパウロ 2000 72-6頁)を味わってみてください。


いと高き 全能の善き主、賛美と誉れ 栄光と祝福は みな あなたのもの。
それらは いと高き あなたにこそ ふさわしく、だれも よく そのまことを 語るものはいない。
たたえられよ 我が主、あなたから造られたもの わけても 貴き兄弟 太陽によって。
彼は昼を造り、主は 彼により 我らを照らす。
彼は大いなる光によって 美しく照り輝き、いと高き あなたの み姿を照らす。
たたえられよ 我が主、姉妹なる月とあまたの星によって。
あなたは それを 大空にちりばめ 美しく 貴く きらめかす。
たたえられよ 我が主、兄弟なる風 大気や雲 さま変わる 天の事象によって。
あなたは それにより 造られた 全てを支えられる。
たたえられよ 我が主、姉妹なる水によって。
それは みなを生かし、おごることなく 貴くまた清らか澄む。
たたえられよ 我が主、あなたは 兄弟なる火によって 夜の闇を照らす。
彼は美しく 心地よく たくましく 力あふれる。
たたえられよ 我が主、我らの母 姉妹なる大地によって。
それは 我らを 育み、草花を とりどりに染め くさぐさの実を 結ばせる。
たたえられよ 我が主、あなたへの 愛のため ひとを赦し 病を忍び 苦しみに耐えるものによって。
幸いなるかな、心安らかに 忍ぶ者。
彼は いと高きあなたの とわの冠に ふさわしい。
たたえられよ 我が主、我らの姉妹 肉体の死によって。
生けるものは だれも その手から 逃れることがない。
禍なるかな、神にそむいて死の時を待つ者!
幸いなるかな、あなたの御旨を 生きる者 二度の死も 彼を損なうことは無い。
我が主をたたえ、ことほぎ、深き へりくだりとともに 感謝のうちに 彼に仕えよ。


 神を讃美する「自然界」を美しく描く詩です。その後半部でやっと「人間」が登場し、そこで「死」の現実が見据えられます。「二度の死」、天国か地獄かという永遠の命運に関わる決定的な裁きが意識されているのでしょう。そういう壮大なヴィジョン、全包括的な視野の中で、人間と一緒に神を讃えるものとして自然が位置づけられます。
 さて、今度は、私が属するカトリック男子修道会、イエズス会の番です。創立者ロヨラの聖イグナチオがおよそ1ヶ月間に及ぶ黙想の指導書として編んだ『霊操(Spiritual Exercises)』という本があります。その23番では、霊操を始める出発点として、下記の「原理と基礎」を思い巡らすよう、勧められています。これがきちんとお腹の底に入っていないといくら黙想しても良い実を結ばないということでしょうか。


人は、主である神を 讃美し、敬い、これに仕え、それによって
 自分の救いを全うするために 創造された。
地上にある その他のものは、人のために、また 
 人が創造された目的を全うするための助けとして 創造された。
したがって、この目的を全うする上に助けとなる限り、そのものを用い、
 妨げとなる限り、これを棄てなければならない。
そのため、人は、すべてのものに対して、
 それが 自由意志にゆだねられ、禁じられていない限り、
  偏らない心を もつようにすることが 必要で、
   すなわち、われわれとしては、
    病気よりも健康を、貧困よりも富貴を、侮辱よりも栄誉を、
   短命よりも長寿を 望む というような ことをせず、
  その他 万事において、ただ われわれが創造された目的に 一層よく導くものだけを
 望み、選ぶ ようにすることが大切である。


 環境問題をその根源から見据える上で、第二の文は、とくに、噛み締めるに値します。「地上にあるその他のものは、人のために、また人が創造された目的を全うするための助けとして創造された。」の下線部の「人が創造された目的」という言葉がキーワードとなるでしょう。その中身が了解されればされるほど、イグナチオの伝えたい真実に共感できます。

 以上、3つの祈り(公式礼拝用の祈祷文/心に染み入り口ずさみたくなる賛美の詩/被造物としての自覚を深める沈思黙考)を紹介しました。どれをとっても、神と人と自然が調和した生き方が可能であるという明確な認識と、そのような生き方を具現しようとする揺るぎない意志を感じ取ることができるでしょう。

 
 
5.聖書と環境思想
 
 旧約聖書の『創世記』の冒頭には、趣を異にする、二つの「天地創造」の話が、出てきます。第一の話だけを問題にする人が多いようですが、実は二つあるのです。天地創造の第二話は、第一話の「初めに、神は天地を創造された。」(1;1 新共同訳)と違って、「主なる神が地と天を造られたとき」(2;4b)から始まります。「地」が先に置かれているところも意味深長なのですが、読み進んでいくと、「動物と人間の親近性」も印象深く感じられることでしょう。
 このような第二話も興味深いのですが、今日は、第一話について、2点だけ触れておきます。まず、創造主である神は、何かをご自分の思いのままに創造なさった後、「これを見て、良しとされた。」(1;4,10,12,18,21,25)と記されています。人間をお創りになる前に、すでに多くのものが創造主によって「良しとされ」ました。ありとあらゆるものの「価値」、生きとし生けるものの「内在的価値」の聖書的根拠の一つがここに見出せます。
 創造主である神がそのものを創造なさって良かったと宣言なさるのだから、その被造物は良いものなのです。ところが面白いことに、最後に創造された人間を、他の被造物と切り離して、それだけで良しとされたとは記されていません。「神はお創りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」(1;31)とあります。人間を含む全ての被造物から成る全世界が極めて良かったということなのでしょう。あるいは、創造主にすら逆らうことのできる自由意思を具えた人間の最終的評価は、進行中の歴史のただ中では決着を見ないということでしょうか。
 人間がいなくなったら地球は安全だという考えがありますが、これは、人間を或る意味で特別の被造物とする聖書とは相容れません。被造界の中から人間がいなくなったら「神にかたどって創造された」(1;27)大切なものが欠けてしまうのです。他方、この特別の被造物である人間だけが創造主である神に逆らうことが出来ます。人間は、与えられた力をその与え主の思いに反するように使うことがあるのです。もし、この創造主への侮辱が決定的になったとき、人間のみでなく全被造界が依然として神の目に良く映るでしょうか。このように根本的な危惧を仄めかしつつ、人間には大きな責任があるのだという事実を思い起こさせてくれるのも、聖書の凄さの一つです。
 簡単にすぎましたが、以上が、リン・ホワイトによって環境問題の元凶であるとされた「近代的な西欧科学」を産み出した「ユダヤ=キリスト教の創造の教理」(『機械と神』 91頁)を内側から「見直した」内容の一部です。そこでは、「地を従わせよ。」「生き物をすべて支配せよ。」(1;28)という人間への神からの“祝福”は、被造界を人間の欲しいままにしてよいという“(責任回避の)お墨付き”ではなく、人間を含めた「極めて良かった。」(1;31)ものを人間が壊してはならないという“(責任を伴う)委託”なのです。

 新約聖書「マタイにおける福音書」(6;9-15 新共同訳)に、キリスト教にもっとも特有の祈りとして皆さんもこれまでどこかで耳にされたことのある「主の祈り」が登場します。


天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。


 実は、この祈りの中にも、神と人と自然の関係についての示唆が潜んでいると思うのです。天と天体(太陽や月や星)は神が創造なさったもので、神のお望みの通りに動く一種の生き物のように考えられていたようです。ところが、一旦、地上に目を降ろすと、つまり人間の世界に目を向けると、神がお望みに適わないことが罷り通っています。そこで、キリストは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と祈るよう、弟子たちにお教えになったのではないでしょうか。「天を仰ぐ」ことが出来ないとこの「祈りの意味」は解らないでしょう。「人間が神のお望みの通りに生きるとはどういうことなのか?」という「問いの意味」がすこしでも解っていれば、この祈りが無味乾燥に響くことはないでしょう。天体が行き来する天は、神の心を人間に思い起こさせてくれるのです。

 
 
6.境内の老木
 
 神戸育ちの私は、昨年(2005)の秋、懐かしい三宮駅近く、中山手にある教会(神戸中央教会)を訪れる機会に恵まれました。大震災から10年を経て、神戸の街も当時の惨状を窺わせる場所はほとんど見当たりませんでした。
 被害を受けた古い聖堂の跡に建てられた新聖堂でミサが行われていました。桜だったでしょうか、一本の老木が「駐車場」兼「遊び場」となった境内の真ん中辺りに、根元の土の地肌が見えるよう間を空けてもらって、静かに佇んでいました。その枝に、次のような英語の文章が書かれた一枚の札が吊るしてありました。

DON'T HANG FROM MY ARMS!
Children, I am a 100-year old grandma.
I used to have strong arms and many children could hang from them.
 But now, I am not as strong any more.
 My arms break easily, and many of them have been broken lately.
 Children, be nice to my arms: don’t hang from them.
Thanks and I love you all.


 終戦直後から外国人の街として知られたこの地の教会には今も外国人の子供たちがたくさんやって来るのでしょう。なかには、若い元気な木と老木の区別など意に介さず悪さをする大人さえいるかも知れません。とにかく、私はこのポスターに心を奪われてしまいした。
 すぐ傍の聖堂で、創造主が讃えられ、この地面に、一本の木が立っている。10年前の震災を経験し、その惨状を目撃者したかのように、生き延びてきた老木。そんな老木に思い遣りを持って接するようにと子供たちに促す人々の存在。神と人と自然との本来の絆を垣間見た一時でした。


 以上