2005年度 市民のための環境公開講座
   
パート2:
21世紀の新しい自然とのつきあい方  
第1回:
自然再生を考える
講師:
高橋 裕氏
   
講師紹介
高橋 裕氏
国際連合大学上席学術顧問・東京大学名誉教授
1927年静岡県生まれ。
1950年 東京大学第2工学部土木工学科卒業。東京大学工学部教授、芝浦工業大学工学部教授を歴任し、また、国際水資源学会理事、ユネスコIHP政府間理事会日本代表、ユネスコIHP(国際水文計画)政府間理事会副議長、河川審議会管理部会委員、同部会河川環境小委員会委員長、WWC(世界水会議)理事などを務める。日本の河川工学の第一人者であり、河川と文化の関係に常に目を注ぎ続けてきた。
 
1.はじめに
 
 「自然再生」という言葉が近年盛んに使われるようになった。これは国際的な関心事項であり、今世紀の環境問題のキーワードである。本日は、何故今「自然共生」なのかという背景・意義を概観する。この言葉は、20世紀の人類が何をしてきたのかということに対する反省に基づくものだと理解している。明治維新、日露戦争、戦後復興というあらゆる転機で日本がどのように歩んできたか。経済成長の影でおきた環境悪化を認識、反省し、日本人として自然再生をどのように考えるか、皆さんのヒントにしていただきたい。
 
 
2.20世紀を省みる
 
 20世紀は地球全体において人口爆発の時代である。20世紀に入った時、世界の人口は16億人であったが、最後の年には60億人を突破した。生物学の一つの説として、ある種の生物が滅びる直前は爆発的に増えるものだと言われるが、それに当て嵌めれば、人類もそろそろ終わりであろうか。
 また、20世紀は2度の世界大戦を経験した戦争の世紀であった。日本は最後に原子爆弾を被ることとなった。原子爆弾は科学技術の偉大な成果と言えばそれまでだが、原子爆弾を発明して、しかもそれを投下してしまったというのは、人類の歴史において大きな汚点となるだろう。同時に、科学技術とは何であるかという反省が我々に課された。これまでは、科学技術が進歩すればするほど、我々の生活は豊かになり、人類は栄えるのだという野放しな科学技術進歩への信仰があった。日本の近代化もその考えに拠っている。
 今から60年前の8月、日本はたいへん悲惨な状況であった。植民地を失い、多くの国民を亡くした上、国土が極度に荒廃していた。このために、毎年のように大水害に見舞われ、地震による被害も大きかった。戦後10〜15年の間は災害の時代でもあった。たまたま起こった自然災害もあったが、国土の荒廃が大きな被害の要因となった。「国破れて山河あり」(杜甫『春望』)という漢詩があるが、敗戦後の日本は「国敗れて山河滅ぶ」という有様であった。戦時中は国土を維持するための費用が不十分で、特に第二次大戦末期には鉄などの資材もすべて戦争のために使われ、鉄筋コンクリートが使えず、土木工事もできなかった。多摩川の奥にある小河内ダムは東京都水道局の管轄で昭和14年から着工していたが、18年には、鉄筋、セメント、労働力も不足し、工事を中止せざるを得なくなった。この他のほとんどの大工事は同様の理由で中止され、国土保全もストップした。これが国土の荒廃を招いた。さらに、戦時中の空襲のため、日本のほとんどの都市は焼け野原となった。主要都市は荒廃に帰し、インフラ施設もほとんど崩壊してしまった。さらに、山、川、湖などの自然そのものも荒廃の極にあった。これが60年前の状況である。
 それから、日本は驚異的な復興を遂げ、高度成長を成し遂げた。一つには日本人の大変な努力があったが、科学技術の飛躍的発展も大きい。世界の中でも日本は特に、20世紀は戦争の連続であった。19世紀末の日清戦争から、20世紀に入って日露戦争、そして2度の世界大戦も経験した。日本は日露戦争に勝って、驕り高ぶった挙句の果てに、軍国国家になってしまった。それが日本が滅びるきっかけとなった。それから40年後に日本は第二次世界大戦に敗れ、滅びの歴史を辿る。
 明治維新から日露戦争までの約40年、日本は懸命に刻苦勉励して近代国家への変容を遂げた。そして日露戦争後の40年で、日本は驕り高ぶり軍国主義に突っ走った悲劇的な時代を迎える。しかし、戦後の40年で日本は完全に復活し高度成長の波に乗った。この時の日本の高度成長は世界を驚かした。このため、再び日本は驕り高ぶることになる。少しも歴史が記憶にならない。結果として、環境破壊の時代へと進む。
 20世紀始めから100年の間で人類の使うエネルギーの量は飛躍的に増えた。紙消費量、自動車生産台数、世界のGNP、貿易量、エネルギー消費量など、すべての数値が右肩上がりになっている。このように生産数やエネルギー消費が伸びることがよいことだと考えられていた。人口も1900年は16億人だったのが、2000年には60億人を超え、大方の予測では、2050年には90億人に上ると言われている。しかも、先進国の人口は増えず、これから増える30億はほぼ途上国の人口のみである。途上国はこれから猛烈にエネルギー消費量を増やすだろう。中国は現在13億人の人口を抱えており、まだまだ増えると予測される。また最近は経済が発展し、エネルギー消費量が猛烈に増えている。また、インドを始めとし、インドネシア、パキスタン、バングラディッシュもその後を追うだろう。現在既に、これらの国は電力不足に悩んでいるが、これからのエネルギー消費量はさらに大変なものになるだろう。差し当たってエネルギーの開発・補給が緊急課題である。また、これらの国はエネルギー効率が相当に悪いことも問題である。途上国の人口増加とエネルギー消費の問題は、今後の地球環境にとって大変深刻な問題である。
 1974年に故・司馬遼太郎氏と対談した時、司馬氏は、「現代は土木技術者興奮時代であり、日本人は有史以来土木工事で初めて奴隷を使うことができて有頂天になっている」と発言された。古代文明の発祥したエジプト、メソポタミア、中国などはみな大土木事業を行なっていた。戦争に勝ち、捕虜をたくさん引き連れてきて、労働力に使うことで、その大土木事業は成り立ってきた。日本は捕虜を大勢連れてくるという経験がなかったため、機械力の無い18世紀までには大土木事業はできなかった。ところが、戦後、最新鋭の機械を使って、従来できなかったような土木事業を次々と達成した。司馬氏の言う「奴隷」というのは大型土木機械のことである。1950〜70年代は土木黄金時代、土木技術者興奮時代だと評し、いずれ興奮が冷めてひどいことになるだろうことを予見されていた。このような光には必ず影が伴うのである。
 
 
3.日本の近代化の意義
 
 日本の近代化とは何だったのか?明治以来の日本の近代化は世界の人々を驚かせた。 明治維新から1940年代までは大変丁寧なインフラ整備をした。まず明治時代には鉄道に力を入れた。それから治水事業、港湾事業である。これが近代化の大きな支えとなった。その後、大戦を経て破滅を迎えたが、戦後は平和憲法のもと、経済大国を目指してきた。日本人の多くは先の大戦でアメリカに負けたと認識しており、負けた理由を経済力の違いからだと考えた。この目標は数字の上では見事に達成した。経済成長のために積極的にインフラ整備をした。この時代、人々はすべての事象を経済成長に依存し過ぎた。経済効果の観点からしか物事を判断せず、それさえ上がればいいことだと考えられた。その結果、深刻な環境問題と格差を生むこととなった。日本の近代化は、科学技術の発展に大変依存していた。例えば、一時期ダムブームがあり、水不足の時代に水を確保し、農業用水にも利用され、水力発電にも使われ、日本の戦後復興を支えてきた。ダムだけでなく、様々なインフラが大きな成果を上げた。しかし、それらが社会や自然に与える影響に対しては無頓着であった。近年はその反動で、メディアではダムの悪い面のみを書き立て、全てのダムが悪の元凶であるかのように言われているのも問題であるが、経済成長期はとにかく経済効率のいいものを造ることに狂奔した。これが今日の国土の環境破壊を齎した。近代化において、科学技術の発展が光であればそれによる環境破壊は影である。日本の近代化というのは何であったかという反省に立ち、自然再生を考えていきたい。
 
 
4.20世紀後半の4半世紀から21世紀へ
 
 20世紀は世界を挙げての開発の時代であった。そして、そのために後半の四半世紀に深刻な生態系劣化を齎し、近代化の影の部分が色濃く表れてきた。日本ではこの20年間で、環境生態系が極度に劣化した。日本だけではないが、先進国の中で、日本は特に戦後の開発が著しかったために、生態系劣化が反動として甚だしかった。また、世界的にも地球環境問題が発生した。20世紀後半、植民地が次々と独立して国々が振興の意気に燃えて、先進国を追うように懸命に開発を始めた。先進国も資金や技術を提供して協力した。確かに、20世紀後半には、途上国の平均生活水準も上がり、かなり先進国に近づいてきた。しかし、日本同様、開発一点張りで、自然環境に与える影響については無頓着であった。それが地球環境問題の発生につながった。特に20世紀後半は世界のエネルギー消費量が猛烈に増えている。これがひいてはCO2問題へつながっている。
 京都議定書以来、CO2問題の認識が高まり地球環境問題と言えばこのことのみが取り沙汰されるが、実際は様々な問題を内包している。私は半月前にブータンを訪れたが、そこでも深刻な問題が起きていた。ヒマラヤ山脈の氷河が溶け出し、自然の湖が沢山できはじめている。今後、氷河は溶け続け自然湖は次々と決壊し、下流側に大洪水を起こすことが予想されている。ブータンだけでなく、ネパール、インド、パキスタン、ウズベキスタンでも同様の現象が起きるであろう。これも地球温暖化の一つの報いである。
 また、地球全体で地下水に異常がおきている。世界的に地下水の量が減っており、バングラディッシュでは砒素が検出されている。また、カザフ共和国の湖であるアラル海は、かつての4分の1の面積になっている。アフリカのチャド湖も中国の洞庭湖もどんどん面積が狭くなっている。地球全体で大問題が起こっているのは、20世紀の開発のしわ寄せである。
 3年前に、環境省が新・生物多様性国家戦を作成し、略と自然再生推進法を成立させた。地球環境の危機を齎している根源的なことを考えれば、差し当たり自然再生をしていかなければ根本的解決に結びつかない。この問題に取り組むには、自然再生の技術という小手先のことではなく、これまでの科学技術文明への反省に立ち、方向転換しなければ人類の未来はない。自然再生ありきではなく、だから自然再生なのである。
 
 
5.自然再生の意義、日本人と自然
  自然再生は地球規模の問題だが、日本ではどのように考えたらよいだろうか。「日本人と自然」という観点から自然再生の意義を考えたい。江戸時代、日本では大災害や飢饉もあり、決して安全な社会ではなかった。しかし、環境の側面から見ると、江戸時代は自然循環が徹底した社会であった。鎖国政策のために貿易がほとんどなかったので、日本列島内で自給自足していた。また、江戸時代は、物を修理する仕事が大流行しており、修理して何回も使うことが習慣となっていた。また、下水道もない時代で、江戸は人口が多かったが、市民の排出するし尿は大切な資源と考えられ、農家が争って獲得していた。
 また、近年里山の存在が見直されている。当時は、里山で枝や落ち葉を集め、薪・炭を主な燃料としていた。里山は資源循環の重要な拠点であり、人々も大事にした。里山と里を中心に、一つの大規模な自然生態系が成り立っていた。しかし、当時は殊更にそのようなことは言われることはなく、現代に生態系が破壊されて、資源循環の意義が初めて意識されるようになったのである。
 河川工事で粗朶沈床という工法がある。粗朶というのは、ナラ、クヌギ、クリなど、広葉樹の枝のことである。これを束ねて河川の護岸工事の基礎に使う。明治維新にオランダの技術者に教わったことになっているが、この方法は万葉の時代から日本で行なわれてきた。柿本人麻呂の和歌にも、「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし」という一説が見られる。「しがらみ」が粗朶を表す。粗朶を河川の護岸の基礎に置くと、そこに魚も集るようになり、生態系の多様化にも貢献する。江戸時代の人々は生態系のことまで考えてこの工法を利用してきた訳ではなく、現在のような科学技術が無いので、自然に行っていたのである。結果的に、里山を保護・育成し、循環系が形成していた。戦後は薪炭を使わなくなり、石油・石炭へのエネルギー革命があり、便利さ故にそれまでの里山との関係が全て断ち切られてしまった。そのため、全国の里山が荒れ果て、失われ、宅地開発されたり、廃棄物置き場と化していった。
 戦後、都市へ人口が集り、住宅を増やすことが差し迫った問題であり、その過程で多くの里山や水田が潰されてきた。このために、元来自然界で営まれていた水循環が乱された。しかし、経済成長期には、水田や川に近い低湿地は地価が安いので、宅地開発の対象となった。洪水調節地の機能を持つ水田や、洪水が起きた時に水が遊ぶスペースとなる低湿地を潰し、そこにどんどん宅地を建てると、それらの場所は当然水害に遭いやすくなる。そのために一層地価が下がり、また宅地が建てられ、次のより大きな水害を招くという悪循環が生まれた。開発というのは水の循環を狂わせる。開発は常に良いことばかりではなく、マイナスのことがつきまとう。私は以前から、あらゆる開発において、その開発を行うと水循環がどうなるかというアセスメントをするべきだと提案しているが、開発関係者は猛反対である。開発はこのような矛盾を孕んでいる。
 日本はもともと雨が多く、昔から台風が襲来した。終戦直後に、台風からくる災害の甚大さのために、原子エネルギーで台風の進路を逸らす研究が本気で行なわれていた。それをもって科学の進歩と考えていた。しかし、進路を変えた先で、台風に遭ってしまう国には大変な迷惑である。また、自然界にそのような手を加えたらどうなるのかという考えも足りない。日本の雨量が減ってしまっても困る。日本には高さ15メートル以上のダムが2700あるが、台風や梅雨を前提としてダムは造られているため、もし台風が来なくなり、雨が半減したら、日本の貯水池の水量は半分になってしまう。洪水は災害を齎すという面だけで論じるべきではない。ある程度の洪水は生態系にとっても大事であり、洪水はすべて悪だと思うのは浅慮である。
 ある意味では、江戸時代より前の日本人の哲学者や科学者はこのような自然の理を知っていたのではないだろうか。そもそも、洪水のコントロールや、ダムを造る技術もなかった時代であるが、当時の治水は効果を上げ、成功していた。江戸時代は濃尾平野、新潟平野では頻繁に川が氾濫していたが、大災害にならないよう、様々な工夫をしていた。日本は元来、台風や梅雨の激しいところであったため、自然とどうつきあうかということに、2000年来知恵を絞ってきた。洪水の起こる危ない地域には人は住まないようにした。また、洪水に対する備えを、人々の地位などにより、格差をつける伝統的習慣があった。例えば、大地主は「水屋」と称して、家を高く造り避難小屋とし、一方で小作人には低く建てさせた。また、木曽川の堤防は御三家の尾張藩のある方だけ高く造られていた。「尾張三尺」と言われ、逆側は三尺以上低くしなければならなかった。そのために木曽川の洪水は西側にばかり溢れていた。西側の住民は自分達の集落を守るため、「輪中」という堤防を築いて囲んだ。その他の地域でも同様に、城がある方の岸は高く堤防が造られた。差別といえば差別だが、これが江戸幕府の治水政策である。昭和40年代には是正されたが、この風習は昭和30年代まで続いており、どの県でもだいたい県庁のある側の堤防は高かった。そのために、水に浸かりやすいところには人は住まず、農業でもその辺りには桑、コンニャク、ハスなど水に強いものを植えていた。このように日本人は、土地の使い方、住まい方によって洪水の災害をなるべく少なくするよう長年工夫してきた。
 また、日本人は万葉集の柿ノ本人麻呂、山部赤人の時代から、江戸時代の芭蕉、与謝蕪村に至るまで、その和歌、俳句を見ると、深い環境思想が伺える。日本人はその頃から自然の観察力に秀でていた。日本は他の温帯の国よりも明瞭な四季を持っている。そしてその四季の変化を敏感に感じ取り、喜ぶ感覚を長い年月の間に磨いてきた。万葉から夏目漱石に至るまで日本の文学は気候風土に詳しく、自然の観察力が極めて鋭い。また、小説では人の心理状態を自然になぞらえて表現することが多く用いられる。
 河川技術においても自然といかに融合するかという点で、他国の技術と性質を異にしている。戦国武将の武田信玄、加藤清正、江戸時代初期の河村瑞賢、八代将軍吉宗の治水奉行であった井沢為永など歴史的な名治水家は枚挙にいとまがない。彼らは自然というものを非常によく知っていた。山梨県の釜無川に信玄堤と呼ばれる堤防がある。武田信玄の功績は、信玄堤を築いたことだけではない。信玄堤まで洪水が来る前にいたるところで洪水のエネルギーを殺す工夫をしている。さらに、信玄堤の上流の方に神社を集めて建てさせることで、堤防の上を参道にし、人々はお参りのために堤防を踏み固めてきた。また、毎年盛大な祭を行い、必然的に多くの人々が通るようにした。さらに、参道なので人々が自発的に維持管理をしてきた。武田信玄は、信玄堤の近い処から洪水流による川の土砂の動きを観察し、川の現象をよく心得ていたのだろう。また、加藤清正が熊本県で行った治水工事は極めて新しい河川技術を駆使している。ハードだけをがっちりと造ればいいという考えではなく、自然とどう付き合うかという視点で技術を駆使している。井沢為永は利根川の水を武蔵野に引いている。その技術に、サイフォンの原理を利用している。まだヨーロッパでもサイフォン技術が使われていない時代である。
 要するに、江戸時代までの名治水家達は、自然と人間との関係を技術という側面からよく理解していた。それだけで万全にはならなくても、この技術を使えば自然はどう変わるのかという読みを持っていた。日頃から日本人全体の自然観察のレベルが高かった。
 江戸時代までの日本人は、自然をある意味では畏れ、慈しむような自然との付き合い方をしてきた。そして、自然の法則に則った技術と感情を磨いてきた。しかし、その伝統は明治以後、近代技術に憧れ、圧倒されるとともに失われていった。近代技術によって日本は多くのインフラ整備を成し遂げたが、同時に生態系を劣化させた。自然と付き合うということは決して生易しいものではない。これからの、自然と共生する社会のあり方をどのように考えたらよいだろうか。今さら生活水準の低かった江戸時代に戻ることはきないが、日本人が2000年来築いてきた自然と付き合う知恵を、自然再生に生かしていくべきである。日本人のDNAの中には自然をよく観察し、つきあう感覚と技術を持っているはずだ。日本の水田や里山は、自然の水循環に則り、技術を磨いてきたものである。地球温暖化による異常気象はあっても、四季、台風、梅雨など、日本の自然は昔と基本的には変わらない。自然と付き合うための作法を取り戻し、今まで築いてきた科学技術の基礎の上にそれを生かし、取り戻すことが自然再生の一つのキーワードである。これからは従来の技術の延長線上に科学技術を置くべきではない。自然共生というものを新たに位置づけ、発展させることが、ひいては自然を取り戻す重要な手段となるだろう。