2004年度 市民のための環境公開講座
   
パート1:
身近な環境問題  
第2回:
ペットから環境を考える
講師:
林 良博氏
   
講師紹介
林 良博氏
東京大学教授。農学博士。1946生まれ、富山県育ち。1969年東京大学農学部卒業後、同大学助教授、ハーバード大学客員研究員、コーネル大学客員教授などを経て、1990年より東京大学教授となる。1996年より3年間東京大学総合研究博物館館長、1999年より農学部長、2004年に理事(副学長)となり、2005年に東京大学教授に復職。他にも日本学術会議会員、総合研究博物館長、内閣府「立ち上がる農山漁村」有識者会議座長も務める。著書は専門書のほかに「ふるさと資源の再発見」、「ヒトと動物」、「検証アニマルセラピー」等多数。
 
1.はじめに
 
 私は2頭のラブラドールレトリバーと長らく暮らしている。本日は飼い主の立場からも、『ペットから環境を考える』という議題についてお話ししたい。環境について考える時、持続可能な社会をいかに構築していくかがテーマとなる。この問題とペットがどう関係するのか説明する。
 
 
2.大量消費社会の現状
 
 人類のあらゆる自然資源の消費量は、すでに地球の生態学的な許容能力を20%上回っている。これはWWFの見解であり、賛否があるが、多くの人がこのままの消費を続ければ絶対に持続できないと考えている。一方で、開発途上国の生活水準向上のための開発は、急務な課題であることを多くの人が認識している。この二律背反する2つの事柄について、日本学術会議の前会長吉川弘之氏の「持続可能な開発とは、虚空間にしか解のない方程式で、誰も解をもっていない」という意見が現実なのだと私も認識している。また、20世紀の後半に、著名なフランスの文化人類学者レヴィ・ストロースが「悲しき熱帯」で述べている「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という言葉は究極の悲観論と言える。現在から見れば相当昔になるこの時代から、この問題はさらに進行しており、21世紀になる今日も、私たちは解を持たない。実際、この悲観的予測の通りになってゆくのではないかと多くの人が感じている。
 持続可能な社会というのは、無駄なエネルギー消費をなくすということである。私の専門である、生物生産、動物生産の立場から見ると、穀物換算食料表示で各国の年間一人あたりの消費量を見ると、インドは年間200キロ、日本は400キロ、アメリカは800キロで、倍倍になっている。400キロというのは日本が現在世界的な長寿国であることからも世界的には理想的な数字だと言われている。明治時代は現在のインドに限りなく近い数字であったはずだ。昔は子ども達がいつも青洟を垂らしていたのは、寒さのせいだけではなく、栄養不良のためでもあった。現在の日本人の栄養は非常に良くなっている。一方で、同時に過剰な飽食状態でもある。しかし、穀物消費量の数値通り、アメリカ人がインド人の4倍の胃袋を持っているということではない。穀物消費量というのは、鶏、豚、牛を穀物に換算しており、これらの動物が育つのに必要な穀物も計算に入れているために、アメリカの消費量が上がるのである。鶏は1キロ辺り必要な穀物は2.5キロ、豚は4キロ、牛は6〜7キロである。つまり、肉を食べるほど、穀物消費が増える。かつて、レスター・ブラウンが、「誰が中国を食わすのか」と発言した通り、中国は肉食率の高まりに応じ、現在穀物輸入国となっている。世界的に見ると、現在約24億人もの栄養不良者がいる。そのうちの12億人が深刻な飢餓、あるいは栄養不足で、一方、同じ12億人が深刻な栄養過多による栄養不良に陥っている。この100年間で、人口が16億人から4倍の63億人に増えた。今後さらに90億人まで増えると予想されている。もし、現在の63億人のまま2050年まで人口が全く増えないと仮定しても、肉食率の高まりによって穀物需要というのはおそらく破綻するだろうと予想されている。
 一方世界の穀物生産量を見ると、1985年に一人当たりの生産量が339キロで、現在の日本人の平均消費量400キロにも満たない。世界全体では年々総生産量は増えており、2000年には18億トンを超えている。しかし人口増加に伴い、一人当たりの生産量は1985年をピークに減り続けている。最新のデータでは、2002年は299キロにまで減少したという報告がある。この理由として考えられるのは、農地が放棄され、新しく作られる農地が減っていることが考えられる。一方で、食肉生産量の拡大は止まらない。1950年に一人あたりの食肉生産が17.2キロだったのが、1990年には倍になり、現在は40キロに達しようとしている。私たち人類が誕生してから約500万年以上経過したが、多くの人類学者が証明してきた通り、私たちは肉食を好む霊長類であり、経済的余裕が出てくれば、必ず肉食率が高まる方向に動くことが予測される。
 現在までに先進国を中心に、膨大な数の家畜を閉じ込めて飼育する「近代的畜産業」が世界的に発展してきた。しかし、このために深刻な糞尿処理問題と動物福祉論争を引き起こしている。一箇所に大量に閉じ込めて飼うというのは非常に効率的だが、それによるリスクも大きい。フランスの人類学者レヴィ・ストロースは、効率性のために、牛に牛を食べさせるという共食いを牛に強いたことの過ちが狂牛病問題につながったとしている。また生命倫理の面から考えて、現在肥満人口が12億を超えるような状況の中で、果たして、今後も肉食率を高め続けてもよいのかという問題提起がある。さらに、動物というのは単なる食料資源と見做すべき存在なのかという生命倫理の問題がある。例えば、鳥インフルエンザは日本でも大問題となったが、その前年にオランダでは100箇所を超える養鶏業者が深刻な被害を受けた。現在オランダはその対策として、鶏のケージ飼いを廃止し、2010年までに全ての養鶏業者が床で飼う方法に切り替えるように義務付けた。これは動物福祉の向上の結果だと考えられる。
 食肉による環境問題、健康問題の一つの解決策として、生命倫理を高めることによって、肉食率の高まりを抑制し、生物資源全体の消費を抑制することができないだろうか。
 
 
3.日本におけるペットの動向
 
 1973年10月に「動物の保護及び管理に関する法律」という法律が日本で成立した。欧米では動物福祉の面からこのような法律が以前から存在したが、日本にはなかったために、外圧が生じたのが契機になった。また、当時イヌが遺棄され、殺処分される件数が毎年62万頭に上った。これだけの動物が毎年捨てられるというのはおかしい、飼い主責任を明確にしよう、という内圧的な理由もあった。反面、この法律は非常に立派な内容ではあるが、「ザル法」であった。罰則規定が弱すぎるため、動物をどんなに虐待しても、大した罪には問われない。実際に、この後も動物を巡る悲惨な事件が起きた。
 しかし、この法律が1999年に改正された際、「命あるもの」という前文が加わった意義は大きい。世界的な民法の改正の動きが、1990年にオーストリアで始まり、ドイツから、ヨーロッパ全体に広まった。近代法では普通、対象は「人」か「もの」に二分される。しかし、ドイツの民法で、「動物はものではない」と書き入れられた。「もの」でないなら何なのかという議論には、未だ決着がついていない。つまり、動物は「命あるもの」であり、「単なるもの」ではないということだろう。動物を傷つけ、殺すことは器物破損より、むしろ傷害罪という方が感覚的に適しているのではないだろうか。このように、動物は「人」でも「単なるもの」でもない非常に微妙な立場であり、相当な位置付けがなされた。日本でも1973年に法律が成立してから、毎年62万頭処分されていた犬の数が、年々減少し、この30年で年12万頭くらいになった。これはイヌを捨てなくなったということである。日本人の場合、欧米のように飼い主が獣医へ行き、「犬を飼えなくなったので、殺処分してくれ」と頼むことができない。今日のように日本が近代化(≒欧米化)しても、日本人は、欧米人とは違う考え方と心を持っている。ちなみに日本で現在イヌが1千万頭飼われているのに対し、アメリカでは5千万頭飼われている。人口の比率を考慮すれば、イヌを飼っている人の割合も2倍以上ということになる。そして、アメリカでは飼い主が飼えなくなって殺処分するイヌが、アメリカのカリフォルニア大学の動物行動学者ベンジャミン・ハートの推定によると、少なくとも500万頭、つまり全体の約10%にも上る。この比率から見れば、日本の12万頭という数字の少ないことがわかる。日本人は、動物を自分の手で、あるいは自分が決断して、殺すことができない国民であることがわかる
 また、1999年の12月に成立し、今年で5年目になる「動物愛護法」も、改正を目指して今年の春から動き始めている。私はその委員を務めている。国会で、全会一致で成立した法律であるが、様々な方面から追加の要請がおき、付帯決議がたくさん付いていた。現在はペットだけが対象となっていたが、おそらくマウスやラットなどの実験動物、牛・豚・鶏などの産業動物の福祉に踏み込まざるをえない状況である。今回の改正では動物愛護法のターゲットが広がる可能性を含んでいる。
 ペットとは一体何なのだろうか。社団法人ジャパンケネルクラブという純粋犬種の犬籍登録を受けている団体がある。日本もペットブーム到来と言われて久しく、戦後の度重なる景気の変動の中で、景気が良くなると登録数が増え、悪くなると減るというように、ペットの数は景気の波と見事に連動してきた。ペットはかつて一種のファッションやブームであった。ただし、これは1989年までのことである。この傾向が崩れたのは、阪神大震災からである。すでにバブルが崩壊していたが、実はペットの数は減らなかった。過去15年間のペット数の動向を見ると、毎年着実に上がってきている。つまり、この頃からペット数は景気と全く連動しなくなってきた。
 少子高齢化社会を迎え、時代はますますペットを必要としている。親は子どもが少ないと、兄弟の代わりにペットを与え、人間関係構築の疑似体験をさせ、家庭環境を豊かにしてあげようと望み、子どももそれを喜ぶ。昔であれば家の中で相手になる兄弟がいたが、現在はそれがいない。その役割をペットに求めるのは、ごく自然な成り行きだろう。また、高齢化社会と核家族化のために、お年寄りの家に孫がいないという状況も増えている。高齢者が持て余すエネルギー、愛情を注ぐ相手としてペットを飼うというのもごく自然な流れであろう。また、近年の厳しい景気の中、受験ストレスを抱えた子どもや、競争社会に疲れきった大人にも、ペットは心を許せる相手として大切な癒しの存在になるだろう。これらの現象、「ペット時代」の到来は、核家族を前提とした少子高齢化社会という新しい時代の要請だと言えるかもしれない。
 
 
4.ペットと人間の関わり方
 
 現在のイヌの祖先は、中央アジアに生息する中型のオオカミだと言われている。オオカミからイヌに家畜化されたのは、炭素14を用いた年代測定法で調べると、現在まででわかっているもので一番古いものが、アラスカに生息していた1万8千年前のイヌである。イヌというのは人間にとって特別な家畜で、1万年以上前から人間に飼われてきた。ネコはだいたい6千〜7千年前で、牛、豚、馬などすべての家畜はこの数千年の間に家畜になったとされる。イヌの遺跡で一番古いものは、日本では8千年前のもので、縄文時代からイヌがいたことがわかる。イヌとオオカミの骨を見分けることは難しく、なぜこの時代からイヌがいたかわかるかというと、遺跡から出るイヌの骨が、ほとんど一体分揃っており、非常に丁寧に埋葬されているためである。また、男性の頭部付近に埋葬されているものも見つかっており、文化人類学の専門家の分析では、おそらくこのイヌはその男性と一緒に狩りをしていたイヌではないかということである。縄文時代は狩猟採集生活だったので、イヌは狩りをする大切な友だちで、飼い主が亡くなったとき、そのイヌも一緒に埋葬したのだろう。世界的にも同様の遺跡が見つかっている。オオカミと人間を一緒に葬ることは考えられないので、やはり家畜のイヌなのだと推測できる。また、縄文遺跡の竪穴式住居の中に、イヌの足跡が見つかったところもある。現在、日本で飼われているイヌの半数は家の中で飼育されている。これは、30年前には全く想像も出来なかったことである。ところが、縄文時代にも家の土間でイヌを飼育していたのである。火を囲んで団欒する家族の中にイヌも加わっているような密着した生活をしていたのではないだろうか。我々もむしろ縄文時代に戻りつつあるのかもしれない。また、重要な点は、縄文人はイヌを決して食べていないということである。700ある縄文遺跡に残っているイヌの骨の中で、食べた形跡がある骨はない。一方、弥生時代の遺跡から出てくるイヌの骨は、割られて骨髄が食べられている跡が見られる。アジア全域でイヌを食べる習慣があり、現在でも、韓国、中国、ベトナム、またフィリピンの一部では食べられている。日本でも、イヌを食すことに関する記述が江戸時代の文献にも残っており、血の気の多い若者が町のイヌを捕まえて食べており、これはけしからんなどという記述が散見される。また、戦後直後も食べていたようだ。しかし、現在は日本でイヌを食べる人はおらず、日本で飼われているペットは家族の一員として遇されていることが多い。前述したように、ペットと家の中で暮らすというのは、縄文的である。縄文時代というのは、争いが少ない本当に平和な時代であった。狩猟採集で食いつないでいたので、飢えていたのではないかと思われるかもしれないが、実はかなり豊かな食生活をしていたことも近年の研究で分かってきた。現在の日本の人口では狩猟採集は適わないが、憧れの気持ちがあるのではないだろうか。
 1999年に改正された「動物愛護法」(正式には「動物の愛護及び管理に関する法律」)について、私は必ずしも賛成できない部分もある。この「愛護」という言葉は、私たち研究者から言わせると、非常に困った言葉である。一つには、英語にできない。英語にできない言葉というのは、日本語のいいところでもあるが、悪いところでもある。つまり非常に曖昧で、概念として捉えにくい言葉である。また、法学的に、「愛護」というのを法律で規定すべきことなのかという疑問もある。ちなみに、同様の法律を外国では「動物虐待防止法」という名称で立法化されているところが多い。何人であろうとも、動物の虐待は許されないということは一般的な共通理解であり、虐待を行なった場合に、法に則り罰則を課すという非常にわかりやすい、すっきりしたものである。しかし、「愛護」というのは、動物虐待をしないということとイコールではない。「虐待」と「愛護」の間には、動物に無関心、嫌いでも虐待しないという立場もある。このような中間的な立場にいる人たちにも「愛護」を法で押し付けることに、法学者からの疑問が生じている。この表現には、日本の悪い方の特性が出ているのではないだろうか。
 日本古来の動物との関わり方というのは、「関わらない関わり方」ではないだろうか。千葉徳爾氏は、そのことを「狩猟伝承研究(続)」の中で「動物を敬して遠ざける」という言葉で表現している。私たち人間は里に住んできた。裏山など身近な場所に栗を植え、人間の里と、山奥の境としてきた。奥山は動物の世界である。だから、動物が里へ下りてきていたずらした場合、「殺す」というよりも「山へ帰れ」というのが我々の本来の動物との付き合い方であった。この関係性は日本人に合った関わり方であったが、裏山どころか奥山まで植林している現代では、このような「関わらない関わり方」は極めて困難で、計画的に動物のための場所を設定しない限り、維持できない。しかし、この関係性についての考え方は尊重されるべきだろう。このような歴史的関わりを見ても、「愛護」を法で押し付けることに、私は疑問を抱く。
 
 
5.環境問題におけるペットの役割
 
 また、現代のペットの役割に、非常に実利的で、環境負荷の少ないものが3つ考えられる。昨今、レジャースポーツはどれも出費のかさむものが多いが、ペットと暮らす場合は、イヌと人間が一緒に散歩するのは、引き綱があればどこへでも行ける。このように手軽で安上がり、なおかつ環境に負荷をかけないレジャースポーツはあまりない。二つ目は、ペットによる教育的効果である。子どもに対する効果というのは相当大きなものがあり、多くの研究者がデータをとっている。友だちになりたいと思われる子はペットを飼っている子の方が圧倒的に多いという統計が出ている。子どもが家でペットを飼っていると、相手をどの程度いじめたら嫌がって逃げたり鳴いたりするかなどをペットとの関わりの中で学んでいるのではないだろうか。つまり相手の痛みが分かる子どもが、他の子どもに好かれるのだろう。他にも、不登校の子どもたちに、馬と一緒に暮らすことで、学校復帰してもらおうという試みをしているところもある。このように、ペットによる様々な教育的効果は多くの面で注目されている。
 また、医療的効果についても確認されている。オーストラリアで5千人以上の人々を対象とした大規模な疫学調査の結果、中性脂肪やコレステロールの数値も、イヌを飼っているかどうかで大きな違いがあった。これも、毎朝散歩をしたがるイヌによる、規則正しい生活のお陰である。また、この統計ではっきりと効果が出ているのは男性であった。
 今やイヌは家庭の中だけのものではなく、社会の一員となりつつあり、イヌには新型の職業犬として、様々な役割が期待されている。代表的なものとして、障害者補助犬についての法律が2年前に通った。それまで特に規定があったのは盲導犬だけであった。目の不自由な方に連れられた盲導犬は、様々な道路交通法に定められている公共機関に入ることができる。最初の一年は公共機関のみだったが、昨年からは、民間であっても特別な理由がない限り協力することが義務付けられた。また、阪神大震災で、救助犬の存在が非常に有名になった。地震だけでなく、雪山や海難のためのレスキュードッグもいる。また、老人ホームなどの施設でアニマルセラピーをするセラピードッグの役割も注目されている。さらには、軽井沢が2年ほど前から実験的に行なっている取り組みで、カレリアンドッグというロシアでクマを追うために使われていたイヌを訓練し、里に出てくるクマの教育をしている。クマと人間が住み分けをしようと、捕まえたクマを生け捕りして、かなり遠くに連れて行って放してもクマはまた帰ってきてしまう。そこでこのイヌに徹底してクマを懲らしめ、「この地域に入ったら、絶対に許さないぞ」という追い方をさせている。
 動物を殺すことによって、私たちは心に痛みを生じる。その心の痛みを回避するために、一般的に4つの方法が取られている。一神教的回避法と哲学的回避法がある。哲学的回避法は、デカルトの動物機械論と言われるもので今でも一定の知識層に影響を与えている。しかしこれら二つの方法は、一般的に日本人はほとんど無縁である。日本では主にアニミズム的回避法が取られる。日本では大学など、サイエンスの最先端と言われているところでも、動物慰霊碑が存在する。クジラ塚など、動物を殺すところには必ず慰霊碑が存在し、申し訳ないという、心の痛みを癒す方法を取っている。これは世界的に見て、稀な回避方法である。さらに、日本では殺す人と食べる人の分離が歴史的に行なわれてきており、現在もこの傾向がますます進行しつつある。私たちがスーパーマーケットに行ったときに、肉はきれいに包装され、原型をとどめていない。この分離が行き過ぎれば、本来の生命というのが分からなくなってくる。「無益な殺生を避ける」という非常に単純な生命倫理により、過大な環境負荷を軽減することが期待できる。その中心的な役割を演じるものとして、ペットがそれに貢献できるのではないだろうか。