2004年度 市民のための環境公開講座
   
パート4:
環境問題の根源を学ぶ  
第1回:
アニミズム・ルネッサンス
講師:
安田 喜憲氏
   
講師紹介
安田 喜憲氏
1946年、三重県に生まれる。72年東北大学大学院理学研究科修士課程修了。広島大学総合科学科助手をへて、94年より国立日本文化研究センター教授。専攻は地理学・環境考古学。環境考古学という新たな分野を、日本で最初に確立。主な著書に、「環境考古学事始」「森のこころと文明」「森林の荒廃と文明の盛衰」など多数。
 
はじめに
 
 21世紀の地球環境を保全するために必要な東洋思想とは、アニミズムにあると考える。このアニミズムこそ自然と人間が共存可能な社会を構築し、持続型文明社会を構築する上で、必要不可欠の思想である。講義ではこのアニミズムの復活について語ります。
 
 
1.心の空白
 
 戦後の私ども日本人には、大きな心の空白というのがある。それは、終戦後の1945年12月15日に行われた神道指令、国家神道の解体、政教分離、そして憲法改正とこういう一連の行事から始まったと考えている。
 心の空白が始まった原因の一つはマッカーサーによる戦後の統治によるもの。マッカーサー自らが無教会派のキリスト教の伝道者としてこの日本を神の国にするという理想に燃え、日本の知的エリートたちに大きな影響を与えた。もう一つの原因は、戦後多くの日本の知的エリートたちがマルクス主義に強く傾倒したことによる。「宗教はアヘンだ」という考えのマルクス主義のもと、日本の神道がことごく排除されていった。そしてキリスト教とマルクス主義の強い影響のもとに、伝統的なアニミズムの世界、神道というものが恥ずかしい事になってしまい、自分たちが神道を崇拝しているというようなことは言えない雰囲気が戦後50年間、ずっと日本を支配してきた。しかし、キリスト教は日本の中に定着することはなく、マルクス主義も、旧ソビエト連邦の崩壊後は信仰する人がほとんどいなくなった。そして日本人の心に空白を生み出した。
 昔は仏教が日本人の心の拠り所となっていたが、現代の日本の仏教は、もはや葬式仏教、儀式仏教になっていて、お坊さんの言葉では日本人の心を救えなくなっている。中世の時代の人々は極楽浄土や地獄があると信じていたが、今や子どもさえほとんど信用しなくなっている。
 こうして、私たち日本人の心の拠り所がなくなった。キリスト教とマルクス主義によって、神道への崇拝や伝統的なアニミズムの世界を大事にする心もいつしか忘れてしまった。だったら何をもって救われるのか。この21世紀に我々が待っているものは何か。
 また、高齢化社会と介護地獄が深刻化する日本では、心の空白によって老人が心の寄り所を失い、日本人の魂の漂白が始まっている。地球環境問題が深刻になりつつあるにもかかわらず、この日本人の心を救済できるような心の拠るべきところがなくなっている。
 
 
2.激動する地球環境と宗教の役割
 
 CO2の濃度は、間氷期という温暖な時代には多くなり、氷河時代には生物の生産量が減少して低下していく。間氷期にはCO2濃度やメタンが上昇するが、現在のようにCO2濃度が360ppm、メタンが1600ppbに達したような時代は、過去40万年の地球の中でも一度もない。一体どんな激変がこれから起こってくるのかほとんど予測がつかない。こんな時代を我々は過去に体験したことがない。CO2濃度からも、我々がいかにこの異常な時代を生きているかというのが分かると思う。
 このままCO2濃度が上昇した場合、2025年にCO2濃度が2倍になり、2050年ぐらいには地中海沿岸や、インド、中国の北部、あるいはアメリカの穀倉地帯が大干ばつに見舞われたり、メキシコ湾沿岸は巨大なハリケーンや竜巻、日本も巨大な台風や高潮に見舞われるだろうと、ユネスコや様々な機関で予測されている。また、2050年には熱帯雨林がなくなり、人口が90億から100億に達するだろうと言われている。私は、このままの状態が続けば、2050年から70年の間に巨大な災害などで人口が一気に激減する可能性が高いと思う。その大量死の時代を目前にして我々はどうすればいいのか。
 激しく地球環境が激動する時代というのは、巨大な宗教が誕生する時代でもある。現代のキリスト教、仏教、儒教といった巨大な宗教が誕生した2500年前は、過去一万年の間で一番気候が寒冷化して、地球環境が激動した時代。そういうときに、イエスや釈迦や孔子が出て、そして人々の心を救済した。私は「2500年目のカルマ」という言葉をよく使うが、21世紀も巨大な地球環境の変動が我々を刻一刻と襲いつつある。スマトラ沖の地震では数百万人の人が被災をして、15万人以上の人々が命を奪われたが、今後21世紀に数百万人の命を奪うような巨大な災害が一気にやってくる可能性がないとは言えない。
 
 
3.超越的な秩序と人間中心主義の宗教
 
 現在の地球環境問題の根底には、自然を支配する超越的な秩序を重視する文明主観と人間中心主義の宗教がある。これを変えないことには、現代の地球環境問題を根底から変えることはできない。2500年前に誕生した巨大宗教というのは、実は、人間だけを考えていたということである。
 今のイラクの問題やアフガニスタンの問題、キリスト教とイスラム教の対立から見るように、現在の巨大宗教では民族の対立を助長することはできても、それをやめることができず、地球環境問題も解決できない。この巨大宗教の大きな問題点は、人間中心主義の宗教であることと、人想像から天国や地獄を生み出し、それに最高の価値を置いているということにある。イスラムの人は自爆すれば自分は天国で救われるということを信じている。ブッシュさんも死んだ後あの世で神の国に召されることを願って、今一生懸命戦争している。この天国や地獄というものは超越的な秩序だと私は考えている。天国や地獄を信仰する、その考えに実は大きな問題があり、21世紀の宗教はそれではもうやっていけない。
 
 超越的な秩序をもった文明主観の代表であるヤスパースは、人類の代表的な文明を、ユダヤキリスト教の教えに立脚したイスラエル文明、ギリシャ哲学に立脚したヨーロッパ文明、その延長にあるアメリカ文明、そして儒教の中国文明と仏教のインド文明だと位置づけた。また、これらの文明は枢軸文明であることから、人類の文明は枢軸文明の時代だとし、人類の文明史上に大きく権威してきた。これらの宗教はまさに超越的な秩序である。その超越的な秩序をもった人々のみが文明を発展させることができたという持論だった。
 キリスト教では、人間が考え出した十字架やキリストという超越者、神の国が超越的秩序のシンボルとなっている。そして、現世的な秩序をもったものは邪悪で、猥雑で、卑猥であるという考えがごく最近まで世界を支配してきた。キリストの聖者が踏みしめているドラゴンは現世的な秩序を表しており、超越的な秩序をもって現世的な秩序を弾圧していたことを示している。しかしその超越的な秩序は、生命のない砂漠で人々の想像から生まれたもの。頭の中で考えた超越的な秩序、それが文明を生み出した、これがいままでの論理だった。
 これに対して日本の神道はそういう超越的な秩序を生み出さなかったため、日本には文明はないと長い間考えられてきた。そして、私たちも最近まで、このヤスパースの言う枢軸文明は正しいと思っていた。
 
 
4.現世的な秩序と日本の自然
 
 ところが、地球環境問題が起こったことによって、超越的ではなく、現世的な秩序を大事にしてきた文明があるということに、やっと僕も気づいた。
 では、超越的な秩序を生み出さなかった日本の神道では何を拝んでいるのか。例えば、奈良県にある大宮神社には庭山という山があるだけ。実は神道ではこの山を拝んでいる。山の森の中にすんでいる動物たちの命が、生きとし生けるものの秩序がきちんと保たれて永劫に続くように、その現世的な秩序がこの地球の中で永劫に続くように、そのことを願って、我々は神の前で手を合わせている。つまり、我々の文明、現世的な秩序を重視する文明は森の中で誕生したと言ってもいい。
 奈良時代に中国から伝来した人間中心主義の仏教も、現世的な秩序の文明の影響を受けて大きく姿を変えた。「山川草木国土至皆成仏」という最澄の言葉は「山や川、草木、国土にいたるまでみんな仏になりましょう」という意味。空海は「森は人の世はもちろん、天上の世界よりも美しい」という言葉を残している。森は現世的な秩序の代表で、天上の世界というのは超越的な秩序のことだとすると、「現世的な秩序は人間がつくった世界よりはもちろん、超越的な秩序よりも美しい」という意味にとらえることができる。そこにはあのヤスパースが言った枢軸文明を超える、はるかに素晴らしい哲学が語られている。
 
 いままでの西洋の人々は、一番すばらしいのは頭(理性)で、体は頭(理性)よりも劣り、ましてや自然は人間よりもはるかに下にあるものだという考えが中心だった。しかし最近は、心と体は一体であると考える心身一元論が哲学者の間でも見直されてきた。
 さらに僕はもう一歩進めて、日本の山や森、海や川、水田、そしてそこに棲む生き物、この日本の自然こそが実は日本人の魂のふるさとではないかと考え、心と自然は一体である心自一元論というのを最近提案している。なぜなら、日本人は心と自然は一体であるというのを容易に受け入れやすい民族だからだ。そして日本人は自然に対して強い信頼がある。自然を信じる人は、実は人をも信じるということにもつながる。そういう原点が日本人にはある。
 しかし、例えば有名なデカルトの「我思う故に我あり」という有名な言葉は、元々は「我疑う故に我あり」という言葉で、つまり、自然を信じない現代の西洋文明や中国文明では、人をも信じることができないということになる。
 21世紀の地球環境問題の大量死の時代や介護地獄の高齢化社会を目前にして、日本人の心を癒してくれるのは、日本の山や川や海などにある美しい風土にあると思う。これを無視しては、我々は生きられない。この美しい風景、森、水田があって、海がある。これが森と水の循環系によって、きちんと守られている。この美しい風景こそが、実は日本人の魂の原点となっているのである。
 
 
5.アニミズム・ルネッサンスの提唱
 
 国際日本文化研究センターから発行されている英文のニュースレターに、私が1990年に提唱した「アニミズム・ルネッサンス」という英語の論文を載せた。その中に「マヤなどのアジティックの文明は、自然を崇拝し、アニミズムの世界に生きた平和な文明だったのに、キリスト教を中心とする一神教の文明はこれを滅ぼした」という部分があったのだが、「太陽に人間を生け贄にしていたアジティックな文明など平和ではない」と世界中から反論がきた。確かにアジティックの人々は、ある程度時間がたつと太陽の力がなくなると考え、太陽にいけにえを捧げていた。しかし、いけにえに選ばれた人は、その自然の循環系、自然の調和を維持するために自分の命を捧げるということを喜び、そして死んでいった。このいけにえで死んだ人は何千人にも達していない。一方、同じ時代にアイルランドでは、自分たちの苦しみを弱い者にぶつけることによって自分たちのおかれた環境の苦しみを解放するために、魔女裁判として何十万人という女性を殺している。現在も、先のイラク戦争で、イスラム教とキリスト教が戦争することによって一体どれだけの人が死んでいるのか。それは野蛮ではないのか。どちら側の文明が野蛮か。
  いけにえの儀式は、人間の代わりに動物を、動物の代わりに人形を、あるいは人形の代わりにみんなが一生懸命自然を守ろうという方向へと、いくらでもその儀式の方法を変えることはできる。太陽の秩序、この宇宙、この地球の生きとし生けるものの命ある調和の世界を守ることにみんなが命がけでやろうという方向にもっていけばいい。こちらの方がよほど素晴らしい哲学ではないか。
 
 アニミズムというのはヨーロッパの世界では猥雑な言葉として捉えられている。また、僕の主張は二項対立で、いつも西洋文明との対決を言っていては対決を助長するだけで、問題は解決しないとも言われている。しかし、融和の前に、まずキリスト教徒の人々がきちんとアニミズムの重要性ということを認識しなければいけない。それから融和が始まる。認識もないうちにこちらがへりくだって、仲良くしましょうなんて言う必要は、僕はないと思う。だから私は大変戦闘的であり、アニミズム原理主義者だと言われている。しかし誰かが言わなければならない。そして、その中で地球環境問題を解決するには、このアニミズムを原点にしたルネサンスというものをやらなければならない。新しい21世紀の時代を切り拓く。いろんな方法があるが、私はアニミズム・ルネッサンスというものを旗印にしていきたい。
 
 
6.小氷期と魔女と竜
 
 今のアメリカの文明もヨーロッパの文明も、大きな闇を抱えている。それはアニミズムの神々を殺した悲劇から発生したもの。アニミズムの神々を殺したがゆえに、魔女裁判をやらなければいけなくなり、現代のこの地球環境問題が起こり、天国と地獄が必要になった。
 魔女裁判が誕生した17世紀には、すでにヨーロッパの森林の90%が徹底的に破壊されていた。森林がなくなると薪の燃料が高騰し、肥料に使われていた麦わらを薪の代わりとして燃料に使用するため地力が衰え、その結果小麦がとれなくなり、小麦の価格が上がっていった。しかも17世紀はヨーロッパの小氷期と呼ばれる、オランダの運河が凍りつくような非常に寒い時代だった。そのため、小麦だけでなく、ヨーロッパで気候が寒冷化したために葡萄までがとれなくなってしまっていた。しかも薪が高いためにウール、毛織物を十分乾かすことができなくなって蚤が大発生し、蚤が媒介者となってペストが大流行した。そのような時代に、イギリスでは魔女の数が急増している。例えば、葡萄がとれないのはマリーという女性が天気を悪くしているせいだとして、魔女として処刑されてしまう。これが魔女裁判の原点である。
 同じように、1620年にメイフラワー号に乗っていったアングロサクソンの人々は、アメリカインディアンを魔女として大迫害をした。そして、森を破壊し、森の中に住んでいる人間は魔女だと言って、彼らを追放していった。こうしてヨーロッパではこのドラゴンを全部殺してしまった。
 ところが、同じ小氷期の時代に日本でも天明や天宝の飢饉寛政の飢饉などが起こっていたが、日本では川を竜にして、この天候が悪いのは竜の、つまりアニミズムの神々の責任であると考えた。その竜が暴れているから仕方がない、悲しみにじっと耐え、悲しみを抱きしめて生きるという心の作法を、我々はアニミズムの神を信じることによって身に付けた。
 また、その心の作法があったために、日本は第二次世界大戦で何十万という人々が亡くなっても決してアメリカ人を敵だとは考えず、今のイラクのような果てしない復習の連鎖を断ち切ることができた。一神教だとひとつしか神様がいないから、これに敵対する人はやっつけるしかなくなってしまう。日本には八百万の神様がいて、この神様がダメな時は、次の神様がいる。それが心の柔軟性を生んでいる。日本ではアニミズムの神々は今も生きている。
 
 
7.アニミズムと生きる
 
 こうしたアニミズムの世界は、実は稲作漁猟民によって長らく伝えられてきた。例えば、ものすごい急傾斜な大地に人間が手を加えて生み出した美しい棚田は、ゲンゴロウやフナやいろんな生物が生きる、生物の多様性の宝庫でもある。また、稲作では他人の水田から自分の水田へ、自分の水田から他人の水田へと水が流れていくため、自分のところだけで水を使い果たさず、他人のことも考えながら生きなければならなくなる。つまり自分以外のことも考えながら生きるということが、稲作農耕社会では必要になってくる。そういう優しい穏やかな慈悲の心がなければ、アニミズムの心は伝えられない。21世紀になった今でも大木に注連縄を巻き、朝日に向かって手を合わせるのは、人間に対する慈悲だけでなく自然に対する慈悲、思いやりによるもの。
  太陽はあらゆるこの地球の命あるもののエネルギーとなっており、稲作漁猟民のシンボルでもある。私は、その太陽こそがアニミズムのシンボルだと考えている。日本はその太陽を国旗にしている。こんなすばらしい国旗はないと僕は思う。なぜその素晴らしい国旗を小学校や中学校の学校で子供たちに教えないのか、国旗を掲揚しないのか。
 
  21世紀の新しいアニミズムに立脚した新しい産業技術社会のひとつにバイオミミクリというものがある。例えば、東北大学の先生がカタツムリの殻には泥がつかないことに着目して研究した結果、カタツムリの殻の表面にある微細な凹凸を道路のタイルの上に復元するとことで汚れのつきにくいタイルを作ることができた。そのような最新の表面加工技術が、実はカタツムリが三千万年生以上この地球で生きてきた叡智としてカタツムリの殻に結集されている。そういった自然の叡智を人類は学ぶべき時。これが、これからの新しい技術革新のあり方だと私は考えている。