内田 繁氏
講師紹介
内田 繁氏
インテリアデザイナー。1943年神奈川県横浜市生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。81年(株)スタジオ80設立現在同取締役。日本を代表するインテリアデザイナーとして商・住空間のデザインにとどまらず、家具、工業デザインから地域開発にいたる幅広い活動を国内外で展開している。毎日デザイン賞、第一回桑沢賞、芸術選奨文部大臣賞他を受賞。代表作に、京都ホテル・ロビー、科学万博つくば'85政府館他多数。メトロポリタン美術館(N.Y.)サンフランシスコ近代美術館に作品が永久コレクション。現在は、東京造形大学、桑沢デザイン研究所客員教授。
 
1.日本文化の底辺
 
(1)国風化
私は、外国で多くの仕事をしていて、日本人の建築家やデザイナーがつくるものと欧米人がつくるものとには微妙な差がある ということを感じてきた。この差異はいったいどこから来ているのかと考え、私は、それらは、じつは環境と深いかかわりをもっていることに気が ついた。
 
欧米の暮らしと私達日本人の暮らしで決定的に違うことがいくつかある。それは、家に入ると靴を脱ぎ、床に座る、という暮 らし方である。このようなスタイルの国は他にどれくらいあるのだろうか。アジアには暑いなどの理由で靴を脱いだりする習慣を持ついくつかの国 があるが、厳密な意味で「靴を脱ぎ、床に座る」生活を深化させたのは、日本と韓国だけである。中国は、イスとテーブルの文化である。したがっ て、中国から日本に入ってくる文化は全てイスとテーブルの文化である。歴史的に中国と深いつながりのある日本は、長い年月をかけて、外来文化 と固有文化との共生を育んできたのだろう。多くの外来文化と共生しながら、日本化させてきた。それが日本の文化である。
 
唐の文明が入ってきた当時、人々は唐の近代建築に驚き、喜ぶ。多くのものを受け入れるのだが、生活面においては、それら はなかなか日本人にはなじまない。結局それらは、イスとテーブルの暮らしだからである。
 
次に入ってきた大きな外来文化は鎌倉時代の禅宗文化である。これもイスとテーブルの暮らしである。最初に入ってきた唐の 建築になんとかなじみながら平安時代となり、やっと日本の暮らしにとけ込み始めた矢先に禅宗文化というもっと新しい近代建築が入ってきた。室 町時代になってようやく日本風になってくる。そして、最後に、明治維新以降の西洋化という大きな波がやってくる。
 
長い歴史の中でのさまざまな文化の流れの中で、どのように国風化していったのかということが日本の文化の非常に重要な点 である。
 
国風化の流れの代表的なものの一つは、靴を脱いで、床に座る暮らしに変更していくことである。唐の文明が入ってきたとき に、法隆寺など多くの建築物ができる。その後時間をかけながら平安時代には靴を脱いで、床に座る文化に変えていく。平安貴族文化である。禅宗 文化も同じである。今、京都の禅寺に行くと、我々は縁側に座り庭を眺めるが、あれは国風化された後の禅宗建築である。そもそも禅寺は土間であ り、敷瓦の上にイスとテーブルの暮らしをしていたのである。
 
 二つめは、直線的なデザインに変化していることである。中国の建築物は流線型が多い。これを長い年月をかけて、穏 やかに平らにしていったのが日本の建築やデザインの特徴である。
 
(2)座る文化
「座る文化」は、アジア固有の文化である。アジア一帯はモンスーン地域である。モンスーン地域における森林文化が、日本文 化の基本的な背景にある。モンスーン地域の特徴は、熱気と湿気である。我々にとっては過酷な気候である。が、動物や植物にとってこれほど住みや すい気候はない。日本の気候では放っておいても植物は育つ。春から夏にかけての過酷な気候は、人間にとっては生死にかかわる。したがって、春か ら夏にかけて日本各地でみられる祭り、祇園まつりに代表されるそれらの祭りは、「夏越の行事」である。厳しい夏を迎えるにあたり、病から逃れる ための呪術的な儀式なのである。
 
では私たちは、そのような森林文化とどのように暮らしてきたか。森林文化に暮らす民族の特性は、大地に腰を据え、さまざま な自然の姿を観察する。そして、想像し、創造し、文化をつくっていく。これが森林文化の特徴である。この文化と対照となる砂漠文化では、砂漠の 民は座っていたら死んでしまう。砂漠の民は動く。歩く文化である。歩く文化と私達の座る文化とは決定的に異なる。ある意味では、座る文化は恵ま れているかもしれない。座っていれば何かの実りがある。歩く民の人たちは、食料を獲るためには、歩いて探さなくてはならない。
座る民の思 考性は、大地を信頼していることである。大地を愛し信頼し、大地の恵のなかで生きていく。したがって私達が長い年月をかけてつくってきた文化は 、大地と共に生きていく文化である。これが、日本を始めとした東アジア一体の国々の文化の特徴である。
 
日本の文化は、座ることを基本に考えられた文化であるが、日本の建築にも同じことが言える。 春から夏にかけて、私達は衣 替えをする。日本建築も衣替えをするのである。春になると襖や障子をはずし、夏障子にする。高温多湿な気候では、空気が流れることがとても重 要である。
高床式建築の特性は、軒下に空気を流すことにあり、夏は開け、冬は閉じる。衣替えは、空気をうまく室内に取り入れるために行っ てきた。
 
風通しをよくするために、夏障子のようなもので部屋と部屋を区切っていると、プライバシーはなさそうであるが、そもそも プライバシーというのは近代思想の発想で、昔にはなかった。
 
(3)日本固有の空間観
私達は、夏障子一つで、厳格に空間を仕切ると認識していた。敷居一つで、向こう側とこちら側との世界を区切っていた。敷 居の向こうにはやたらに行ってはいけないという認識が日本の慣習にはある。そうした多くの認識的なものによって、私達の国はできている。
 
日本の空間は何らかの形で必ず仕切る。仕切った上で暮らしをつくる。なぜなら、茫漠たる自然の中では、仕切っていないと自 分がどこにいるのか、何者かわからなくなるからである。国、村、町、家、そして最後の仕切りは自分の「名前」である。
 
このような仕切りの考え方は、文化の形成にとって大変重要である。仕切り、囲うという方法が日本と西洋とではだいぶ異なる のである。
 
仕切りの構造を大別すると、三つの異なる方向を見出すことができる。
第一には、「物理的仕切り」である。これは、障害物としての仕切りで、「万里の長城」や城壁都市など、西洋の住宅や都市構造の基本原則と なっている仕切りの方法である。
第二の方向は、「認識的仕切り」である。この方法は、日本独自の仕切りの考え方である。線を一本引い ただけで、ここと向こうは異なる。生垣、閾(しきみ)、門、暖簾など、それとなく仕切られる空間分割である。この方法は、ほとんど物理的 強制力がないが、私たち日本人には、これで感覚的に仕切るという認識ができるのである。この認識は、私が西洋で建築やデザインをしていて 一番ぶつかる問題である。私達日本人は、感覚的に例えば柱を数本建てただけで、むこうとこちらとは異なる空間だと認識できる。しかし、欧 米の彼らはそうは思わない。彼らは壁を必要とする。物理的な遮蔽物があって初めて仕切るというのである。この違いは、文化背景の違いが表 れていると思う。
 
三番めの仕切りの構造は、仕切ることが生み出す、閉ざされた「内」と排除された「外」という二つの世界をつなぐ空間、 「空白の領域」である。この空白の領域も日本の特性のすばらしいところである。AにもBにも属さない空間をつくる。縁側、茶室の露地など、 ワンクッションをつくることによって、文化が深く拡大していく。この考えは、建築だけでなく日本の文化のあらゆるものに行き渡っている感 覚である。縁側は表なのか内なのか、判断は難しいだろう。このような中間領域をつくることによって、私達日本人は外部と内部をスムーズに 連結したり、断絶している。
 
(4)「yes」と「no」
西洋人と日本人の会話に象徴される「yes」と「no」の使い方には、大きな差異がある。日本では全てを「yes」と 「no」だけではあらわせない。日本語は、「わからない」ということは「分けられない」という言葉でもある。現象面では二つを分けることが できるが、もっと複雑なものになっていくと、簡単に白黒つけられない。分けられないということ。という物の見方ができるのが日本人である。
「お天道様が知っている」。お天道様は知っているかもしれないが、私にはわからない。見えない何かが存在するということに気がついていて、 二つの問題を分けることはできない、という考えである。これは座る民の特性である。座る民の特性で重要なことは感覚を生み出すことだ。感覚 的に物事を捉えるということである。ところが、歩く民の特性は、最終的には科学を生み出すことになった。18〜20世紀はある意味で科学の 世紀でもある。科学的根拠がなかったり証明できない場合には成立できないという決め方をしてきた時代である。しかし、宇宙が広大であること に対して、証明できることはいったいどれくらいあるだろうか。証明できていないことの方がはるかに多いだろう。ということは、見えない世界 があるということを知っているか、知っていないかはとても重要である
 
21世紀は、日本人が考えてきたものの考え方が重要になるのではないか。西洋がつくってきた科学的な世界に限界がきた のかもしれないと、皆が思うようになってきた。
私は、21世紀の文化を考えたときに、東洋の思想が重要だと思うようになってきた。
 
 
2.日本固有の空間観の具体例
(1)垣根
京都市北区にある光悦寺の垣根は、簡単に人が乗り越えられるほどの高さであり、ボリュームである。西洋的な視点でみると、 この垣根では何の防御にもならないから仕切りの機能に値しないとなる。しかし、日本人にとっては、これで十分である。日本と西洋では、入って もらいたくないものが異なるのである。日本人にとって、垣根のなかの聖なる空間に入ってもらいたくないものは、邪悪な霊や死、怨霊である。こ れらを防御するためには、どのような仕切りなのか。呪術的な意味を持ちながら仕切るためには、認識的に仕切るしかない。どんな厚い大きな壁を つくっても、邪悪な霊は入ってくる。
 
銀閣寺の垣根は、見事な青葉である。日本は照葉樹林文化圏である。ここでは照葉樹は、薬用であり魔よけである。お茶の葉 も薬として日本に入ってきたものである。照葉には、あらゆる力を持っていると思われていた。だから、どんな粗末な家にも垣根はあった。垣根が あって家がある。
 
(2)門
門は垣根の一部を切り開いて、人が通過するためにあるものである。門は、外部の邪悪なものと内部の聖なる ものとの境界に位置していて、異界との接点である。大きく切り開いてしまったら、どんどん悪霊が入ってくるのではないかと考えられるが、日本 の建築文化においては、閾が1本あることによって、邪悪なものは一切入らないと認識されてきた。結界のしるしである。「しきみ(閾)」→「し きいき」→「いしきいき」→「しきい(敷居)」という言葉に転化されていったと考えられる。閾はそれ自体が聖なるものである。したがって、「 敷居」はまたぐものであり、踏んではいけないのである。 門 
(3)靴脱ぎ石
日本の家は聖なる場である。また、日本の家は、西洋のように「入る」ものではなく、「上がる」ものである。 最近の住宅にはあまり見られなくなっているが、本来玄関には「靴脱ぎ石」がある。靴を脱ぐことはとても重要である。靴を脱ぐ行為そのものに、 聖なる場に向かっていく全ての儀礼が含まれている。靴脱ぎ石は、ここでケガレを落として、「どうぞお上がりください」という意味なのである。 これも聖なる場所むかう行為である。このこと一つをとっても、日本の文化の象徴である。 靴脱ぎ石 
(4)座敷と襖
座敷は、日本建築の特徴的な空間である。AとBの空間を厳格に仕切らない。AとBはそれとなく融合しているがそれ でも二つに分かれている。襖は日本の特性である。襖のような仕切り方は鎌倉時代に始まった。襖は開いてあるときが正しい姿である。閉じ たときは何か起きているときなので、むやみに近づいてはいけない。このことは暗黙の了解である。この暗黙の了解という認識が多くの日本 の文化をつくってきた。ちなみに、西洋では扉は閉まっているのが正しい姿で日本と逆の認識である。 座敷と襖 
 
3.水平感覚
日本の建築文化の特性の一つには、水平感覚が強いということが挙げられる。本来、日本の家は、屋根と柱と床しかない。 あとは吹きさらしである。壁はないのである。これに比べて、西洋の建築は石造建築が基礎なので、縦に長い窓がある。垂直に構成されている。 日本の窓は横に水平に長い。このように水平感覚が強いのは、「座る文化」だからではないだろうか。目は横に動く、眺めるという動きである。 この動きが水平感覚をつくってきたのではないか。西洋的なものはすべて垂直的なもの、日本的なものはすべて水平的なもので構成されている。 この違いは大きい。
 
 
4.野だて
野だては、野外空間に一枚の布を敷くだけで行われる、茶の湯の儀式である。
野外とはいえ、靴を脱いで座ると妙に落 ち着く。家に上がったような感じになる。このことは、日本人が持つ独特の感覚だろう。じつは家の概念は、屋根があるとかではなく、靴を脱い だところが家なのである。だから屋根がかかっていても靴を脱がなければ家ではない。
したがって、「野だて」としての家は、移動するダイ ナミックな文化である。たった1枚の緋もうせんが家である。季節ごとに野だてという家をかえ、季節と共に遊び、それが自分達の暮らしの基本 としていたのが日本人なのである。
 
 
5.仮設文化
毎年、5月に行われる奈良興福寺の薪能、初夏の緑に包まれた野外の舞台である。薪能は神に向かって祈り、ささげ、舞う。 そのために完璧な結界が必要である。舞台の敷地の四隅に4本の柱を建て、そこに注連縄を回す。真ん中に榊を一本置く。すると神のための神籬 (ひもろぎ)ができる。薪能に限らず、私達は、地鎮祭など何かの儀礼のときには、4本の柱を建て、供え物をし、榊をおく。榊は依代(よりし ろ)の役目もある。儀礼が終わると、これらは取り払われる。
薪能の舞台も仮設につくられるものである。日本人は、神事に伴う行事は特 に、仮設性を重視してきた。これは新鮮であることが重要であるからである。いつまでも存在しているものでは鮮度は保てない。そのために、今 つくって、終わり次第撤去するのである。いつでも変化する仮設性なのである。日本において聖なるものは仮設である。ものごとが終わると元の 姿に戻す。固定化しない。定着しない。変化するのは当たり前であり、固定化しているものは、いつか朽ち果てる。これは日本文化にとって大変 重要な思想の一つである。
 
「ゆく河の流れては絶えずして、しかももとの水にあらず」。鴨長明が書いた「方丈記」の冒頭であるが、川の水は、常に 流れるという変化していないといけない。流れが止まると淀んで、腐ってしまう。自然は四季折々に変化するように、家も何もかもが変化してい ることが正しいという考えである。比べて、20世紀は、固定化し確定する世界である。硬くて丈夫で壊れないものが正しいものとされた。鴨長 明や西行、吉田兼好などに代表される隠者の暮らしの場は、草庵である。今、生きている私たちは、過客にすぎない。したがって、住まいも草で 作った家で十分であるという意味の草庵である。彼らが「変化こそ永遠である」という隠者の思想を生んだ。1052年は末法元年で、疫病など が蔓延し末法思想が流行した。藤原頼通は、治世のために宇治に絢爛豪華な平等院を建てたが、結局そのような建物は、時を経れば汚れて朽ちて いく。隠遁者はそのように見越し、「変化こそ永遠である」と考えたのである。そして、その考えが茶の湯や侘びにつながっていく。
 
彼らは、丈夫な物、強い物だけが文化だけではない。非常に弱々しい物、微細なものにも美しさがある。うたかたなものに も美しさがあることを知っていた。実際、今日庵はとても質素な庵だが、じつに400年も持っている。物は持たそうと思えは持つ。最初から丈 夫である必要はない。使いにくいものも使いこなすことによって、愛着がわく。使うことを怠っていることこそ問題である。おそらく日本の文化 の背後にあるのはこのような考え方であろう。そして、重要な点は、日本の暮らしは全て自然とのかかわり合いからできあがっているということ である。自然を考えるということは我々の生活をもう一度見直してみようということではないか。
世界中の人々が、西洋がつくってきた科学 的な世界に限界がきたのかもしれないと、思うようになってきた。
 
私は、21世紀は、日本人が考えてきたものの考え方が重要になるのではないかと思っている。日本文化がつくってきたも のには未来性があると確信している。
 
 
参考図書
「インテリアと日本人」(内田繁著 昌文社刊)
 
 
 
 
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