講師紹介
国松 俊英氏
1940年滋賀県生まれ。
同志社大学商学部卒業。日本児童文学者協会、宮沢賢治学会、日本野鳥の会会員。
子ども向けの童話や児童小説の他に自然や野鳥を題材にした一般書も執筆。
主な著書に、『トキよ舞いあがれ』、『アホウドリが復活する日』(くもん出版)、『最後のトキ ニッポニア・ニッポン』(金の星社)、『カラスの大研究』(PHP研究所)、『宮沢賢治 鳥の世界』(小学館)、『鳥を描き続けた男――鳥類画家・小林重三』(晶文社)、『鳥の博物誌――伝承と文化の世界に舞う』(河出書房新社)、『星野道夫物語――アラスカの呼び声』(ポプラ社)など。現在、駒沢大学、文教大学で児童文学の講師を務めている。


1. 賢治童話との出会い

私が最初に宮沢賢治の本を読んだのは、中学校の図書室であった。「どんぐりと山猫」、「注文の多い料理店」、「セロ引きのゴーシュ」などを一生懸命に読んだのを今でも覚えている。当時私が読んでいた夏目漱石や島崎藤村などとは全く違う不思議な雰囲気の作品ばかりで、宮沢賢治は変わった物を書く人だなあという印象を持った。おもしろいけれどちょっと怖くて、暗い感じがする作品だった。

宮沢賢治はとても不思議な人で、小さい頃から今日までずっと私について回っている作家だ。私は中学生の頃から、いろいろな作家の本を読んできたが、多くの場合、一通り読んでしまうと卒業してしまう作家が多い。しかし、宮沢賢治はそうではなくて、少しの間疎遠になっていても、またしばらくすると取り出しては読んでいる。そういう風に何度かあらたな出会いを繰り返して今日まできた。私にとって、このような作家は他にはいない。

高校生のときには、演劇部に頼まれていくつかの劇に出たことがあるが、その一つに宮沢賢治の「植物医師」という作品がある。演劇部の先生に賢治のいろいろな作品を読みなさいと言われて、さらにいくつかの作品を読んだ。大学生になってからは、それまで読まなかった賢治の詩を読むようになった。特に、妹トシの死を詠んだ「永訣の朝」など一連の詩は強く印象に残っている。そうして私は、大学を卒業してから、童話を書くようになった。このきっかけになったのも宮沢賢治であった。賢治が書いている童話のようなものを一度私も書いてみたいと思い、童話の創作サークルに入ったのである。賢治の童話を読んでいなかったら、私は児童文学の世界に入っていなかったと思う。


この7月にサハリンを旅行した。じつはこの旅は、賢治の足跡をたどる旅であった。今から80年前、大正12年前の夏に、宮沢賢治は樺太旅行をしている。その旅行は、表向きには、当時巻農学校の教師をしていたために、生徒の就職を頼むという理由とされているが、実際の旅行の目的は他にあった。謎の多い旅行で、今回の私の旅の目的は、その謎を解きほぐすことであった。賢治は稚内から樺太まで船で行ったが私も同様にして行った。この旅の目的については、現在も調査研究を続けている。

このように、中学のときにはじめて触れた宮沢賢治とは、今もこうしたつきあいが続いている。


2.自然とのふれあいから生まれた文学

宮沢賢治はどのように自然と接していたのだろうか。
賢治は盛岡高等農林学校(現岩手大学)・農芸化学科に学んだ。高等農林学校3年生の頃から、土性調査や地質調査のために、岩手県内各地を歩き回り、時には野宿などもした。卒業後も研究生として大学に残り、県や郡からの依頼で稗貫郡(花巻市)周辺をくまなく歩き回り、地形や土壌調査を行った。賢治は特に山登りが大好きだった。



賢治の中学時代の友人は賢治の山登りについてこう言っている。「賢治は運動神経の鈍さはクラスで一番だった。軍人上がりの体操教師にしょっちゅう怒鳴られていた。野球、庭球、柔道、剣道などスポーツには一切縁がなかった。ところが不思議でならないのは、登山の時の颯爽とした健脚ぶりだった。体操の時間には一番の劣等生だったのに、山登りになると全く別人になったようだった。」私は非常におもしろいエピソードだと思う。
いわゆるスポーツは全くだめだが、自分の好きな山登りになると力がいっぱい出てきたということだろう。

岩手山は、初めて登った中学二年生以来、百回も登ったといわれているほど大好きな山だったらしい。岩手山のほかにも種山や早池峰山など、賢治は岩手県内の高い山、低い山をくまなく歩いた。

また賢治は、子供の頃から「石っこ賢さん」と呼ばれるほど岩石や鉱物が好きで、一生懸命に鉱物を集めていた。星をながめるのも好きだった。小さい頃から、天文の本を読み星座表を持ち歩いていた。野宿した夜にはずっと星を見ていたのではないかと思う。

私は、いつも野山を歩いていた賢治の作品は、自然との対話の中から生まれてきたと思う。岩手の山や森や野原を舞台にして、透き通った風と光から生まれたと言ってよいだろう。
童話集『注文の多い料理店』は、大正13(1924)年12月、28歳の時に東京光原社より刊行された。生前に出版した唯一の童話集で、9編の童話が収録されている。 童話集の序に賢治は次のように書いている。「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野原や鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたがないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。」

童話「狼森(おいのもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすっともり)」は、人間と自然との交流をテーマにした童話である。作品に登場する狼森と笊森、黒坂森(くろさかもり)、盗森の四つの森は、小岩井農場の北にある実在の森だ。岩手山麓の原野にやってきた人々が森に許しをもらってから住み始める創生神話である。 この話は、大自然の童話「風の又三郎」は、九月初めの二百十日の日に、高田三郎という少年が山の小さな小学校に転校して来て、十日ほどいてまた風のように去っていってしまう話である。風の吹くようす、雲が流れるさま、木や草の描写、賢治の自然に対する鋭い観察力と愛情を感じさせる作品だ。中で、森と人間がそれぞれ生きていくために、許しあいながら、結びついている姿を描いている。大昔の人々は山や川や森を敬い、それらに溶け込みながら、謙虚な気持ちで生活をしてきた。賢治はそうした自然と人間の姿を童話にした。人間は自然に生かしてもらっているということがよくわかる話である。
童話「風の又三郎」は、九月初めの二百十日の日に、高田三郎という少年が山の小さな小学校に転校して来て、十日ほどいてまた風のように去っていってしまう話である。風の吹くようす、雲が流れるさま、木や草の描写、賢治の自然に対する鋭い観察力と愛情を感じさせる作品だ。

童話「鹿踊り(ししおどり)のはじまり」の鹿踊りは、岩手県に伝わる伝統芸能で、この由来を書いた話である。嘉十(かじゅう)という男が西の山へ湯治に出かけ、その途中、草原で6頭のシカに出会う。嘉十がススキの陰からのぞいていると、シカたちが問答をしているのが聞こえる。そのうちシカたちは、夕日に向かって歌い踊り始める。自然の描写がとてもすぐれた作品だ。 人間が大きな自然の中に、一人ぽつんといると、自然の一部になったような気持ちになるものだが、そうした人間の気持ちや様子がとてもうまく書かれている。話のラストの部分、シカが去ったあと嘉十は西の山に歩き出すのだが、嘉十にはさっき見たシカたちの歌や踊りの印象が深く残っているのか、とても満足そうに歩いていく嘉十の姿が読者に伝わってくる。賢治は、野生の命に触れた喜びを書きたかったのだろう。

童話「虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)」は、まわりの人から「少し足りない」と思われ馬鹿にされている虔十(けんじゅう)が、家のうらの野原に杉の小さな苗を700本植え、杉林を命がけで育て、守り通す物語である。虔十の死後、杉林は人びとのやすらぎの場となり、虔十の意志を大切に思う遺族によって守られていく。この作品は、人生で大切な物は何だろうかと教えてくれる作品だ。自然を愛し、植物を愛し、森が好きだった賢治らしい作品である。

童話「注文の多い料理店」は、ふたりの都会の紳士が猟に来て山奥で道に迷ってしまう。林の中で「西洋料理店・山猫軒」という風変わりなレストランを見つけて入りこむと、奇妙で恐ろしい目に合う。危機一髪のところで猟師と犬に救われる、という話だ。 賢治は、自然を美しく豊かに愛情を込めて描く作家だった。しかし、自然はいつも人間に優しいばかりではない。人間の勝手な振る舞いや傲慢さを許さず、牙をむき出しにして襲いかかってくることもある。そうした自然の恐ろしさ、怖さを賢治はよく知っていた。山や森は大きくて得体の知れないもので、また、得体の知れないものを住まわせているのが自然でもある。山の中にあった「山猫軒」は、自然の恐ろしさを象徴するものではないか。自然は、優しく迎え入れてはくれるのだが、扉を開けてどんどん入っていくと、引き返せなくなってしまう。この作品には、自然の前で思い上がっている人間に対する自然の怒りの気持ちが込められていると思う。


3. イーハトーヴの動物たち

賢治の作品には、数多くの動物が登場する。動物が主人公であったり、重要な役割をする作品がたくさんある。動物が出てきても、ただ動物の姿を借りるだけの擬人法で書いているのではなく、動物の特徴や属性をよく知って書いている。賢治は、野山で野生動物によく出会い、この世界に共に生きる仲間として、大きな愛情を持って眺めていた。賢治は童話の中で、動物と人間が心を開き交感している姿を描いた。

賢治は仏教信者だったこともあるが、大きな動物をはじめ、ミミズやクモなどの小さな生き物にも人間と同じ生命が流れていると考えていた。地球に生まれた者は全て仲間であり、兄弟であると考えていたのである。

童話「セロ弾きのゴーシュ」は、町の楽団にいる下手なセロ弾き、ゴーシュが主人公の物語だ。いちばん下手くそなので、いつも楽長に叱られている。だから演奏会が近づくと、毎晩、水車小屋でセロを練習している。すると、三毛猫やカッコウ、タヌキなどがやってきて、セロを弾いてくれと頼む。動物たちにセロを弾いてやっているうちに、ゴーシュのセロは上手になっていき、演奏会では見事な腕を発揮する。ゴーシュのところにやってくる動物たちは病気を持っていて、セロを弾いてもらって病気が癒される。ゴーシュも動物達に弾いてやることによって腕が上がり元気になっていく。動物と人間が癒し癒されるという素晴らしい関係が描かれている。

童話「雪渡り」は、雪が凍って大理石のようになった日に、人間の子ども、四郎とかん子は野原でキツネの子「紺三郎」と出会って仲よしになる。紺三郎はふたりをキツネの幻灯会に招待してくれる。招待された四郎とかん子は、キツネの作ってくれたきび団子を食べるとキツネ達は大喜びするという話だ。賢治は、いつも罠をしかける人間と、人をだますキツネが心を通わせ交感する童話を描いた。人間とキツネを兄弟や仲間という関係で描いている。賢治は動物の側に立って、作品を書いたのである。銃や罠で狙われている動物達の嘆きや苦しみ悲しみを、賢治は自分のことのように感じて書いたと思われる。



4. 賢治作品の鳥を読む

賢治の作品に登場する動物では、鳥が一番多い。どれくらいの数の鳥が登場するのだろう。「ちくま文庫」の賢治全集10巻を使って調べてみた。
すると、登場する動物は、鳥55種、哺乳類41種、昆虫類17種、魚類15種、爬虫類・両生類4種、その他17種だった。詩に登場する鳥も加えると、鳥は71種にもなった。
鳥が登場する童話
ヨタカ「よだかの星」、カラス「烏の北斗七星」、フクロウ「二十六夜」「林の底」「かしわばやしの夜」、ガン「雁の童子」、マナヅル「マナヅルとダァリヤ」、ハチドリ「黄いろのトマト」「十力の金剛石」、カッコウ「セロ弾きのゴーシュ」、カワセミ「よだかの星」「やまなし」、モズ「鳥をとるやなぎ」…………。

このように多くの鳥が登場する作品や、彼らを描いた作家は他にはいない。どうしてこんなに多くの鳥が登場するのか考えてみた。
賢治は野山を歩きながら、林や野原で鳥の姿をながめ、鳥のさえずりに耳を澄ませて、心をはずませていた。キツネやタヌキなどの哺乳動物は夜行性のものが多い。昼間はなかなか出会えない。出会っても敏感ですぐに逃げてしまう。しかし、鳥は、野原や川、林、山などあらゆる場所にいる。また夏鳥や冬鳥などどんな季節にも会うことができる。賢治にとって、自然の中で、もっとも親しい友だちは鳥だったのではないだろうか。そして、賢治は、つばさを持って大空を自由に飛翔するその鳥たちに、夢や憧れ、願い、祈りなどを託したのではないかと思う。

また、賢治は自然の中の音にも敏感だった。せせらぎ、風、木の葉の音にいつも耳を傾けていた。自然の音の中でもとりわけ、鳥たちが軽やかにさえずる声に心を捉えられていた。音楽が好きだった賢治は、歌い手としての鳥を愛したのだと思う。

賢治がどのように鳥と接していたのかを知る手がかりとなる短歌がある。
「またひとり はやしに来て 鳩のなきまねし 悲しきちさき 百合の根を掘る」 (大正3年、賢治18歳のときの短歌。)一人で林に来て、鳩の鳴きまねをしながら、百合の根を掘っているという歌である。

「かくこうの まねしてひとり 行きたれば ひとは恐れて みちを避けたり」 (大正5年20歳、盛岡高等農学校2年のときの短歌である。)カッコウの鳴きまねをしながら歩いていたら、向こうから歩いてきた人がびっくりして怖がって道を譲ってくれたという歌である。賢治は、歩きながらもカッコウの鳴きまねをしていたらしい。そういう歌である。

「口笛に 応ふるをやめ 鳥はいま 葉をひるがへす 木立に入りぬ」 (大正6年21歳のときの短歌。)賢治が口笛を吹くと鳥が応えてくれて、賢治と鳥は会話をしていた。けれどその鳥はもう口笛に応えることをやめて、林の中に入ってしまったという歌。 賢治という人は自然と一体となっていたとか、植物や動物と会話をしたとか言われているが、このような短歌を読むと、そのことが本当だとわかる。



5.賢治童話からのメッセージ

一本の木、一本の草花、一羽の鳥、一匹の虫、どんなものにも豊かな生命が流れていて、それぞれのことばを語っている。自然の中に入ってじっと耳を傾ければ、それらはいろんなことを話してくれる。けものも鳥も虫も、みんな人間の仲間だ。人間の文明も文化も、自然や生き物とともにあってはじめて成り立つものである。人間は自然や生き物によって生かされているのだ、ということを賢治はたくさんの作品を通して私達に伝えているように思う。

90年代半ばごろ、私は賢治作品の舞台になっている場所をバードウォッチングをして訪ね歩いた。少しでも賢治が生きていた頃の自然の様子を知ろうとした。日本野鳥の会の会員に何人かお会いして、昔の盛岡や花巻の様子や鳥について伺った。すると、戦前くらいまでにはたくさんいた鳥が、70年代の終わり頃からどんどん減っていったという。野鳥の宝庫だった初夏の早池峰山でも、鳥のさえずりが聞こえなくなってしまった。そうして、この傾向は現在でも続いており、岩手から鳥の姿が消えつつある。
賢治の作品「ヨタカの星」に登場するヨタカも、岩手ではごくありふれた夏鳥だったが、今ではほとんどいなくなってしまった。開発や自然破壊が彼らの生息地や餌を奪っているのだ。この様子を賢治が知ったらどう思うだろう。賢治は、とてつもなく恐ろしいことが鳥や私たち人間に差し迫っていることにすぐに気がつくだろう。

私達人間は生活を少しでも便利にしたい、快適にしたいという気持ちで、山を削り、林を切り、沼や池を埋め立ててきた。そして、鳥や生き物の生息場所を奪ってきた。自然の生態系も壊してきた。気がつくと、私達のまわりには生き物がいなくなっている。

賢治の童話をもう一度読み返してみようと思う。そして、人間にとって自然はどのような存在なのか、私たち人間は自然とどのようにつきあっていけば良いのか、深く考えてみたいと思うのである。


参考図書
『図説 宮沢賢治』上田哲・関山房兵他/河出書房新社
『山と森の旅 宮沢賢治・童話の舞台』金子民雄/れんが書房新社
『宮沢賢治と自然』 宮城一男/玉川大学出版部
『宮沢賢治をめぐる冒険』高木仁三郎/社会思想社
『宮沢賢治 鳥の世界』国松俊英/小学館


 
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