主催者挨拶

財団法人損保ジャパン環境財団専務理事福井光彦

 損保ジャパン環境財団は1999年に設立され、環境教育、環境における人材育成に焦点を当て活動してきております。大学生・大学院生をNPO・NGOにラーニング生として派遣する「CSOラーニング制度」や、市民の方々に環境問題に少しでも関心を持っていただくようにと、市民向けの環境公開連続講座を開催するなど、諸々の活動を行ってきております。

境リスク管理と予防原則-法学的・経済学的検討 その活動の1つとして、地道な研究活動があり、財団設立前から、損保ジャパングループ全体で活動してきています。最初の研究テーマが「スーパーファンド法(土壌汚染)」であり、2つ目がリサイクル法とリサイクル関連について研究し、出版してきました。第3のテーマが本日お話しさせていただく「環境リスク管理と予防原則」です。本研究会については、京都大学大学院の植田先生、早稲田大学大学院の大塚先生はじめ数々の先生、損保ジャパングループの社員も参加して、20回にわたり研究会を開催し、その成果を本年6月に『環境リスク管理と予防原則』という書名で出版いたしました。

 今日は、その出版の記念シンポジウムでございます。皆様方の今後の環境活動の一助となればと思っています。

 損保ジャパンおよび損保ジャパングループでは、これからもこうした基礎的な研究を行いつつ、いろいろな情報発信をしていきたいと思いますので、皆様方のご指導ご鞭撻をいただければ幸いです。

基調報告

京都大学大学院経済学研究科・同地球環境学堂教授植田 和弘氏

 まず、なぜ「環境リスク管理と予防原則」を書籍としてまとめたか、何を伝えようとしているか、概説をお話します。

植田 和弘氏 予防原則について学術的に書かれた本はたくさんありますが、法学的、理論的な意味だけでなく、経済的、政策的、企業の実務的な意味においても、包括的にまとめられた本書は、他に類書がないと思われます。また、予防原則が適用されようとしている領域についても広く議論しているところに特徴があります。

 数多くの事例を挙げることができますが、例えば予防原則とは、「環境に脅威を与える物質または活動についても、その物質や活動と環境への損害とを結びつける科学的証明が不確実であることをもって、環境への影響を防止するための対策を延期する理由として用いてはならない」ということです。この原則が生まれた背景には、「環境リスク」の出現があります。科学技術の発展や経済活動の活発化は、恩恵をもたらしてくれる反面、新たな社会問題やリスクを生み出してきました。

 私たちは過去に水俣病を経験しました。1956年5月に水俣病の発生が公式確認されましたが、残念ながら、環境庁ができたのは1971年ですから、当時の日本に環境行政はありませんでした。そこで起こった被害は、取り返しのつかない甚大な被害だったわけですが、こうしたことを未然に防止する必要があるということで、「未然防止原則」という考え方が確立されました。これは、因果関係が明確なものに関しては、未然防止がなされるべきだという原則で、大きな意味を持っています。しかし、この原則の限界は、因果関係が明確である事に限っているところにあります。温暖化問題や生物多様性における問題は、どれだけの影響が、いつどういう形で起こるのかというと、因果関係を突き止めるのは困難な面があります。科学的な因果関係が完全にはわかっていないが、大きな損害が生じる可能性があるものについては、どういう意思決定をすべきかというときに、未然防止をもう少し発展させる必要がある。こうした背景のもとに、予防原則が生まれました。環境政策は、被害が起こってから政策が動き出すという対処療法的な政策手段から、科学的に原因が明らかな問題について適用される「未然防止原則」へ。さらに、科学的な因果関係が必ずしも判明していない問題について適用される「予防原則」へと、第三段階に入ろうとしています。

植田 和弘氏 世界的にも広範な領域で予防原則が必要だと議論され、国際条約等で方向性が示されています。学術的には、理論的に正当化できるのか、具体化の基準はどうなるのかということが議論されています。政策においては、因果関係が明らかになっていないが、環境損害を起こす可能性があるときに、保護されるべき環境水準など、意思決定と社会的・政治的判断が求められます。また、この意思決定が、国際的な行動規範にどういうかたちで反映されていくか、企業経営の中でどのように具体化されるかは、合意形成や手続きの問題が大きく、社会の成熟度にも関わるように私には思えます。そこで、今日は、各領域の進捗と課題について本書の内容を踏まえながら議論していきたいと思います。

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分野別報告

化学物質

早稲田大学大学院法務研究科・同法学部教授大塚 直氏

 予防原則は、1990年代に国際条約に取り上げられてきており、なかでも1992年につくられた、リオ宣言の第15原則では、予防原則に対して、[1.十分な科学的確実性がない]、[2.重大な又は回復不能な損害のおそれ]、[3.対策を延期すべきでない]という3つの要素を挙げています。

大塚 直氏 国際条約に取り上げられてきた背景には、地球環境問題等が発生したこと、化学物質への発展に、環境への影響の評価が追いつかなかったことがあったと考えられます。国際的な問題だけでなく、水俣病も予防原則の適用例といえます。水俣病は、1968年に当時の厚生省が正式に認定するまでに12年かかっており、この間に対策をとらなかったことが大きな問題を引き起こしました。特に、食品衛生法の解釈として、「おそれ」という語が入っていなかったために水俣病の原因となる魚の販売を禁止しなかったことが挙げられます。このように、予防原則は理念の問題だけではなく、我が国においては、水俣病の教訓と密接に関係しています。なお、規制をする際に国の側でなく、事業者の方が安全性があることないし、一定のリスクがないことを証明すべきであるとするいわゆる証明責任の転換を、予防原則の内容する議論もなされますが、これは、一部の場合に限定されます。

 我が国における予防原則の根拠は、環境基本法4条の持続可能な発展の概念に含まれ、さらに同法19条の国の環境配慮義務の中に含まれる余地があります。また、生物多様性の分野では、2008年に制定された生物多様性基本法3条3項が予防原則を規定しています。適用の要件としては、損害の回復不可能性または重大性を要件とするリオ宣言第15原則の考え方が重要です。また、ドイツ連邦憲法裁判所の決定では「全くの仮定的リスクは排除する」としています。

大塚 直氏 予防原則には二つの内容が含まれます。一つは、調査やリスク評価が十分に行われていない科学的に不確実な場合に、いろいろな事前審査の手続きをとるということ。もう一つは、調査の結果をしても尚、科学的不確実性が残っている場合に、なんらかの対策(規制、経済的手法、情報開示、公表など)をとるということです。二つ目の方が予防原則の中心です。一つ目についても、リスク評価をする間も対象物質の生産・販売等が停止されているとか、リスク評価自体にコストがかかるという点で事業者に相当の負担である場合が少なくありません。科学的な確実性がないのに、こういうことを行うということについては、予防原則によって根拠づけることが適切であると言えます。

 国や自治体がなんらかの措置をとる場合に、行政法上、比例原則の適用が必要であるとされています。比例原則の中でも特に重要なのが、「措置による侵害が目的たる利益と均衡を失していないこと」です。EUでは、予防原則が問題になる事例において、比例原則が適用されていますが、これについては、幅広い行政と立法の裁量が認められると考えられています。便益と費用とどちらが大きいかということを数値化して比べることは、科学的不確実な事象について算定することが困難です。このことから、EUのCommunication Paperでは、措置の作為・不作為に伴う費用と便益を「検討」するとされていて、確定までは求めていません。

 化学物質については、2009年改正前から、「化学物質審査法(略称:化審法)」において、新規化学物質の製造・輸入業者に一定事項の届け出義務があるなど、予防原則の適用と考えられる部分が多くありました。さらに、2009年の「化審法」の改正によって、既存化学物質を含めた包括的な管理制度が導入され、従来の化審法と比べると大きく進歩したと言えます。一方、EUで行われている化学物質関係の規制REACHの登録制度では、新規・既存に関わらずデータがないと市場に出せない「No Data No Market」となっており、予防原則の適用としては徹底しています。わが国では、既存化学物質については「No Data No Market」というほど、徹底されてはいません。化学物質においても予防原則の確立は非常に重要な課題です。

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生物多様性

東京大学大学院農学生命科学研究科教授鷲谷 いづみ氏

鷲谷 いづみ氏 この秋に名古屋でCOP10が開催されましたので、本書の内容をやや広げてお話しさせていただきます。生物多様性は、複雑でダイナミックな対象なので、当然ながら不確実性が高く、予防的な取り組みを必要とする場面が多くあります。これまであまり重視されてこなかったことから、データが非常に少ない分野でもありますが、その評価において、次第に客観的な手法がとられるようになってきています。

 現在までの評価の流れとしては、1990年代のエコロジカル・フットプリント(EF)については、日本でも認知されるようになりましたが、2000年代では地球規模の生態系評価としてミレニアム生態系評価(MA)、2010年には地球規模生物多様性概況3版(GBO3)、日本で同様の評価をした生物多様性総合評価・日本(JBO3)があります。他に、2009年に研究者のグループがボランタリーで実施し、『Nature』に掲載された評価論文なども話題になっています。ミレニアム生態系評価の枠組みと評価の流れについては、「生態系サービス」がキーワードになっています。生態系が、その働きを通じて人間社会に提供する、あらゆる便益機能を指す用語です。特に、将来どう影響するかということが重要なので、シナリオを構築し、対応選択肢と不確実性についても分析しています。COP10では、2010年の達成目標を評価して、新たな目標をつくることが主要な議題のひとつでした。現状評価は、指標に基づいてなされます。2010年目標は、「2010年までに生物多様性の減少速度を顕著に低下させる」で、11の下位目標と21の指標で評価されましたが、結局、2010年目標の達成には失敗したという結論が出されました。一部の地域で達成されたとしても、地球規模で達成されたものがなかったということです。GBO3では、現在の傾向が続くと、絶滅と生態系サービスの消失・劣化が続くと結論づけられました。もうひとつ、「地球規模でシステムが臨界点(tipping point)を超え、生物多様性の劇的な損失とそれに伴う広範な生態系サービスの劣化が生じるリスクが高まる可能性」があるとしています。「臨界点(tipping point)」は、評価の世界では重要なキーワードになっています。ある臨界点を超えると、生物多様性とそれが支える生態系サービスがまったく違うフェーズに移行してしまい、甚大な変化が生じます。その事態は、将来ほぼ確実に発生しますが、その時期を正確に予測するのは困難であると言われています。

鷲谷 いづみ氏 また、日本のJBOでは、30の指標をつくって評価しましたが、データの不足から適切な評価になったかどうかという問題は残っています。データがないものについては、エキスパートオピニオン(専門分野の第一人者など)の意見を多数お聞きして客観性を確保する手法をとりました。

 限界値を知るための総合科学アセスメント(ロックストレームらが実施)では、産業革命前の数値と比較して、気候変動、生物多様性の損失、窒素循環、オゾン層の減少など、地球の9つのサブシステムについて限界値を設定して現状を評価しています。例えば、生物多様性の損失については、絶滅率(100万種あたりの絶滅種数/1年)で評価し、現状はすでに限界値を大きく超えていると評価されています。

 このように、生物多様性においても、さまざまな評価の手法が開発されつつあることをお伝えできればと思います。

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国際法

龍谷大学法学部教授高村ゆかり氏

高村ゆかり氏 国際環境法における予防原則で最も有名なものは、先にもお話がありましたが、リオ宣言第15原則です。80年代後半から、酸性雨、海洋汚染等に対して、ECの環境規制の文書等に取り込まれて、さらに国際的合意文書の中に取り込まれて来た経緯があります。同時に、日本で様々な国際条約を元にした国内環境法が制定されている観点からも、予防原則についての国際的な議論と扱われ方が重要になります。環境条約等のルールでは、気候変動枠組条約、化学物質管理、海洋環境の保全など、様々な分野で予防原則を見ることができます。

 現在の国際ルールは、個別の問題ごとに、その潜在的リスクと不確実性に対していかに対処するかを制度化している傾向があります。そのひとつが、気候変動枠組条約3条3項で、予防的な措置を求められている例ですが、具体的な内容、どのような対策がとられるべきかについては、その問題と領域ごとに行動基準を具体化・明確化する手法がとられています。地球環境問題については、リスクの対応や社会的受容可能性が異なるので、環境条約の定式化は極めて多様です。典型的手法うちの一つは、一定の行動基準において最悪のケースを想定してリスクのヘッジをする。また、「立証責任の転換」は、予防原則では一般的に合意されていません。ただし、特定の問題については、禁止ではなく、許容されるものを列挙するリバースリスト方式で、それに当たらないものについては、許容されていない行為を行う側に、リスクが生じないことを証明する責任を負わせることになっています。例として、1996年のロンドン条約では、廃棄物等の投棄を禁止しましたが、ここでは、海洋に、大量に投棄されることが“許容される物”が列挙されており、これ以外の物を投棄する場合には、それが重大な環境リスクを生じさせないことを、“投棄する側が証明しなくてはならない”という手法があります。これは、事実上の立証責任の転換をはかる事例です。

高村ゆかり氏 越境汚染は、国際裁判において争われている局面です。国際裁判所は、こうした国境を超える環境リスクと予防原則の関係について、国家に対して、国境を超えるリスクについては予防的対処をとらなくてはならないという原則は名言していません。しかし、注目されるのは、潜在的リスクに対して、国家の慎重さと注意を改めて要求する判断をするケースがほとんどだということです。さらに、不確実性を伴うリスクに対して情報の交換、リスク影響の監視のための国家間の協力と協議を求めている点も注目されます。

 貿易との関係については、衛生植物検疫措置に関する協定(SPS協定)、例えば、成長ホルモン剤を使用した牛肉の輸入を禁止したEUの措置などにおいて、問題になりました。こうしたWTOとの関係について、基本的には国家が環境リスクに対してどのような対処をするか、国家の専権事項であるとしつつも、その措置に関してはWTO協定上の要件を満たさなければならないという立場をとっています。日本の事業者にとって関心があるのは、REACH、RoHSといったEUの化学物質の使用禁止・規制に関する点だと思います。こうした問題について、環境や健康といった社会が求める規範と、貿易の規範とをどのように整合させていくかが、国際的なルール形成の課題となっています。

 国際社会において予防原則が注目されてきた理由には、さまざまな新しい事態に対して科学技術が必ずしも正確なリスク評価ができる状態に至っていないということがあります。また、そうした不確実性を伴うリスクに対して、適正な手続きを経て行動基準をつくっていくことが必要とされています。科学の役割りは言うまでもありませんが、利害関係者の参加を盛り込んだ政策決定プロセスが求められています。国際的ルールが国内に与える影響を考えますと、国際レベルにおいていかにそうした政策決定の枠組みをつくっていくかという問題に、私たちは直面しています。

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企業経営

株式会社損害保険ジャパン理事・CSR統括部長関 正雄氏

 予防原則と企業経営ということで、企業の意思決定に影響を与える具体的な「行動規範」における予防原則ついて、最新の社会的責任規格ISO26000を例に、ご報告させていただきます。

関 正雄氏 5年間の策定期間を経て11月に発行される、最新の社会的責任規格ISO26000にも予防原則が取り入れられています。ISOが、SR(組織の社会的責任)の規格づくりに乗り出し、持続可能な発展を正面から捉えた初の規格であり、企業、消費者、労働組合、政府、NGO、その他の有識者といった6つのマルチステークホルダー参加のプロセスによって合意をした初の規格でもあります。組織に対し、持続可能な発展への貢献を促し、法令順守を超える活動を奨励するもので、現時点での世界のグッド・プラクティスの集大成となっています。

 この中で、組織の社会的責任とは何かという定義の一つに、「国際的な行動規範の尊重」があります。組織は意思決定、サプライチェーン・マネジメントの中で社会的責任を果たすことを求められています。また、国際的行動規範の定義としては、「社会的に責任ある組織に対する期待」があります。これは、あらゆる組織が目指すことのできる目標及び原則を表現しており、この中に予防原則も含まれています。

 具体的には、社会的責任の中核主題として掲げる7つの主題の中で、「環境」と「消費者課題」に予防原則が取り上げられています。作業部会の議論では、健康被害や労働災害等を防ぐために、8つ目の主題として予防原則を掲げるべきであるという議論もありました。このように、ISO26000の策定の作業部会では、予防原則は最後の最後まで議論が続きました。大きな論点の一つは、リオ宣言第15原則にある「費用対効果の高い措置」という表現でした。予防原則を強める立場から言うと、費用対効果を問わない措置が求められたため、この一文は削除すべきという意見が出ました。しかし、歯止めとして必要だという議論もあり、結果として、ISO26000の最終草案では、「予防的アプローチ」として次のようなテキストになっています。

「予防的アプローチとは、環境と開発に関するリオ宣言、並びにその後の宣言及び合意に基づくものである。これらの宣言及び合意は、環境又は人間の健康に重大な損害又は不可逆的な損害を与えるおそれがある場合に、科学的確実性が不十分であることを理由に、環境悪化又は人間の健康への損害を予防する費用対効果の高い措置の実施を延期しないという概念を推し進めるものである。措置の費用対効果を考慮する際には、組織は、その措置の短期的な費用だけでなく、長期的な費用及び便益を検討するのがよい

関 正雄氏 リオ宣言との比較では、「環境」から「人間の健康」にまで拡張されました。「費用対効果の高い措置」は残されましたが、その代わりに「措置の費用対効果を考慮する際には、組織は、その措置の短期的な費用だけでなく、長期的な費用を及び便益を検討するのがよい」という但し書きが加わり、合意に至りました。議論の中では、アメリカ政府が、予防原則に対して否定的立場であり、「科学的根拠に基づくべきである」という主張を崩さないなど、さまざまな議論がありましたが、結局のところ、予防原則をいかに役立つ有用な考え方として用いるか、という観点で新たな解釈を加えて合意した、ということだと思います。

 この規格の正統性、影響力の源になっているのは、マルチステークホルダー・プロセスにあると思います。利点としては、「多様な視点を共有でき、多面的に深く理解することができる」「対話のプロセスを通じ関係者間の相互理解が深まり、信頼関係が醸成される」「得られた結論への当事者の納得感や結論自体の正当性が高まる」…といったことが挙げられます。もちろん利点だけではないですが、合意形成の手法として今後重要性を増すのではないかと思います。

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分野別報告を受けて

環境省環境事務次官小林 光氏

小林 光氏 本日、ご報告の中で水俣病のことが引用されていましたことを感慨深く思っております。私が事務次官になってから足繁く、水俣病の発祥地である熊本県、鹿児島県、新潟県に赴いています。水俣病問題はまだ終わったわけではなく、むしろ最近になって最高裁で判決が下り、当時の国が水俣病の拡大を防げなかったことに言及しています。こうした環境汚染・健康被害の社会的影響を考慮するとき、予防原則は抽象論ではなく、切実な問題であると認識しております。また、国際的課題となっている温暖化対策や生物多様性問題についても、予防原則を反映させるために議論が進んでいます。我が国としても、政策の方針として予防的な取り組みが必要であることは環境施策として決定しつつあります。

小林 光氏 環境基本法で定めております基本計画の中では、「環境の現状と環境政策の展開の方向」という政策方針をすすめていますが、その三つの大きな流れの一つとして、予防原則が位置づけられています。予防的取り組みに関しては、技術開発・研究の充実と不確実性を踏まえた取り組みについて、科学的知見を明らかにしながらも、柔軟な施策決定と変更を実施することが記述されています。また、「科学的証拠が欠如していることをもって対策を延期する理由とはせず、科学的知見の充実に務めながら対策を講じる」とされています。地球環境保全、大気環境の保全、化学物質の環境リスク等の環境分野に関わる個別の予防的取り組みについては、毎年、各分野における施策の進捗状況をフォローアップしております。今後の課題としては、分野全体に通じる、予防的な取り組み方法の考え方に基づく施策の推進方法についても必要な検討を行うことが求められています。

社団法人日本動力協会会長、東京電力株式会社顧問桝本 晃章氏

 私は45年間、東京電力で電気事業の仕事に携わりましたので、現場の視点でお話しさせていただきたいと思います。

桝本晃章氏 産業界の中でも電力業界というのは、電力を低コストで安定供給することと同時に、地域的・地球的な問題に取り組むという矛盾した問題に対応しています。決して、産業界は環境問題を軽視することはありませんが、同時に、環境にそれなりにインパクトを与えざるを得ない。それが使命であり、みなさんの豊かさの源泉であります。

 産業活動での量的措置は、安全の規制、技術の基準によって進められておりますが、先生方のお話をお聞きして、「予防原則」という観点では、規制・基準だけでは十分ではなく、それでもまだ社会的問題を生ずる可能性があるという理解をしました。科学的に不確かなものについて、産業活動としてどう考えるかというテーマをいただいたわけですが、負の面と同時に便益を享受している実態がありますので、バランスを考えることが重要であると思います。ところが一方で、企業としては、「ゴーイング・コンサーン(無期限に事業を継続することを前提とした考え方)」の主体として物事が動いていますので、企業経営者や技術者の良心に基づき、予防原則の原型とも言える形で、少なくとも電力業界においては設備を造っていると私には思えます。従って、予防原則は、企業の社会的責任につながるものであると考えられます。特に、日本の場合は、社会的存在として長期的に見た場合、社会の支持、株主、消費者など、ステークホルダーの理解と支援がなければ企業・産業は成り立ちませんので、背景には、予防原則の考え方があると理解しております。

桝本晃章氏 産業活動に予防原則を適用する際、基準や規制との関係をどう考えるのかは悩ましいところであります。科学に基づく基準や規制、科学的に不確かという場合の“科学的”定義を考えますと、例えば、原子力発電所の微量な放射線の問題に代表されるように、その定義にすら論争があります。科学的な解明や事案も、時代や科学の進歩と共に変化し、産業の在り方、基準・規制にも修正が求められてきています。予防原則は貴重な考え方でありますし、代償を払って生まれたものでありますから、大いに尊重して、真剣に受け止める必要があります。しかし、一方で、予防原則が、どのような量的基準になるのかという基本的な問題を考えざるを得ません。おそらく社会的受容が決め手になり、行政の裁量になると思いますが、その前に、専門家による科学的な知見に基づく判断が重要だと思います。さらに、その専門家は、良心と社会的責任を踏まえていただく必要があるという意味で、専門家自身と専門家を抱える企業・産業の責任が、予防原則の適用には欠かせないと思います。

住友化学株式会社レスポンシブル ケア室 兼 気候変動対応推進室主幹奥村 彰氏

奥村 彰氏 私は、1998年に東京に来るまでは、アメリカと欧州で農薬の登録をする仕事をしておりまして、安全性の評価について膨大なデータを元に折衝をしていました。東京に来まして、一般化学品の安全性と環境問題を任された際に、データの少なさに唖然としました。当時、世界各国では新規物質については事前評価があったのですが、既存化学物質については、日本を含むほとんどの国が、国の責務となっていました。各国の提出データをOECD(経済協力開発機構 Organization for Economic Cooperation and Development)が評価していましたが、10年経っても200物質程度しか評価できませんでした。そこで、1999年に世界の化学産業界が協力して、5年間で1000物質の評価を実施し、OECDに提出することを決めました。さらに、2002年にワールドサミット(持続可能な開発に関する世界サミット)が開催され、2020年までに、「全ての化学物質の製造・使用・廃棄の過程における健康や環境へのリスクを最小化にする」ということが決議されました(WSSD2020年目標)。その後、欧州ではREACHができて、アメリカではTSCA(有害物質規制Toxic Substances Control Act)の改正が議論されていますし、日本では「化学物質審査法(略称:化審法)」が改正されました。ということで、国内では、(社)日本化学工業協会による化学物質管理自主活動JIPS(Japan Initiative of Product Stewardship)が始まり、ICCA(国際化学工業協会協議会 International Council of Chemical Association)の国際的な化学品管理戦略GPS(Global Product Strategy)に基づき、WSSD2020年目標に向けて取り組みがなされています。

奥村 彰氏 欧州のREACHについては、私自身はみなさんが想像しておられるほど機能する制度なのか、製品の部品調達の履歴をどこまで追えるかという問題や、評価を実施するマンパワー不足の面等で疑問を持っております。欧州は理念をつくりましたが、運用については柔軟な内容になると思っています。また、既存化学物質のデータについてチェックリスト等がありますが、全てのデータについて機械的に作業した場合、膨大な無駄が生じるのではないかと懸念しております。それと比較すれば、官民連携して話し合いの下に行われる日本の制度の方が合理的・効率的にうまくいくのではないかと思っております。

 住友化学では、社内審査機関を設けて、各種法令はもちろんのこと、エクスポージャー(曝露状況)、廃棄の問題、レスポンシブルケアにもイニシアチブをとって取り組んでおり、こうした化学物質管理への取り組みを広げたものがCSRなのではないかと思っております。

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パネルディスカッション

パネリスト

コメンテーター

コーディネーター

植田植田生物多様性、化学物質、法律、環境施策、産業活動に関わるお話をうかがいましたが、非常に広い領域なので、予防原則に関わる以上の絞り方ができないですが、コメントを受けて、または他の報告者のお話の感想と、論点を深めていただければと思います。

大塚大塚桝本さんのお話で重要な点だと思ったのは、予防原則が量的基準になり得るかという点と、専門家の判断が重要だという点です。比例原則との関係で申しますと、予防原則自体は環境政策を進めていく原則なので、比例原則と両方使うことによって量的基準を見つけていく必要があると思います。リスク評価は専門家が中心になり、その次の段階のリスク管理は、専門家以外にも、行政、市民といった「社会」で決めていくべきであると考えるのが一般的です。化学物質については、化審法の改正により、それなりに高いレベルで審査することになりましたので、当面これで実施して、さらに問題がないかを検討していくべきです。

鷲谷鷲谷桝本さんのお話で、専門家の判断の中で、論争や意見の相違といった問題点が強調されていたと思うのですが、科学の世界では、ピアレビュー(Peer Review)という、専門家同士が検証し合って情報を出すと言うシステムが確立されているので、論争だけで情報が出ることはありません。具体例としては、山口県の田ノ浦に建設が予定されている、上関原子力発電所については、瀬戸内海の生物多様性ホットスポットを損なう可能性があるということで、専門家で統一した見解をもってアピールを出しております。ただし、私共の分野の専門家は圧倒的に数が少ないので、今日の話題のひとつであるマルチステークホルダープロセスというものも重要であると考えております。

高村高村予防原則は、一方の当事者にとっては魔法の杖のように、これさえあれば何でもできるような印象をもって主張されることもありますし、逆に、産業や技術にとっては意味のない抽象的なものとして受け止められるところがあると思います。そういう意味では、具体的に個別のリスクに対して行動規範をつくっていく必要があると思います。環境リスクと不確実性の対応が異なるということです。新しいリスクと言われるものに対してはデータと、そのリスクを明らかにしていくことに、行政あるいは事業者が大きな力を注ぐ必要があると思います。予防原則を強く主張する市民側の話を聞くと、必要な情報が得られていないことが挙げられていますので、このあたりは、行政側に、社会的合意形成の課題と期待があると思います。

関企業の立場としては、現実の困難な課題に立ち向かい、失敗や学びを積み重ねるなかで生まれた知恵が貴重だと思います。そうした個々のケースが理論化と体系化によって洗練されていけば、予防原則の適用をめぐる議論もより豊かなものになっていくのではないかと思います。その意味で、今後益々、企業に議論やルール検討への積極的な参加を求めていく必要があると思います。私は、今朝、名古屋のCOP10から帰ってきたのですが、印象的だったのは以前に比べて生物多様性の議論への企業の参加が進んできている。企業を蚊帳の外に置いて非難するのではなく、ソリューションを提供する立場の企業がルールづくりに参加することへの期待が高まってきているのではないかと思います。

小林小林行政としては、予防的な取り組みを実施しやすくするためのバックアップ体制が必要だと感じました。やはり経済との関係が重要だと思います。そういう観点で思い出すのはフロン規制です。規制に至るまでの時期、国際的に議論が進んで、ある時点までは日本もアメリカも反対の立場だったわけですが、アメリカでデュポン社が代替フロンを開発してからはアメリカの態度が180度変わって、日本も追従せざるを得なかった経緯があります。結局、規制反対だったために日本は代替フロンの開発に遅れをとったのではないかと感じました。日頃から環境に取り組む企業の技術開発について経済的なインセンティブ等があれば、アメリカの後塵を拝することはなかったはずです。経済との関係において、環境に取り組んだ方が企業も得をするような仕組みを創っていく必要があります。また、政治や企業と切り離した、科学的基礎、例えばIPCC(気候変動に関する政府間パネル Intergovernmental Panel on Climate Change)のような機構を築くことも必要です。さらに、社会的な議論をどうするかというのも大事な要素だと思います。個々の政策についてはパブコメや審議会で意見を取り入れる仕組みは発達してきていますが、それで十分なのかという点を考えていかなくてはいけないと思います。

桝本桝本産業界は、現場の人たちがもっと自分たちの考えや悩んでいることを、学者の方々やNGO、社会に情報を提供すると同時に主張するべきだと思います。産業界は二酸化炭素を出す張本人ではありますが、逆に、社会に対して、より低炭素で効率の良いサービスを提供する側でもあります。そういう意味で、荷物を背負い、悩みながら進んでいるのが産業界です。企業の社会的責任は、本業で行ってこそだと思いますし、日本の産業界は、すでに、社業の基軸のひとつに、環境への取り組みを据えて経営を行っていると私は思っています。

奥村奥村企業の社会的責任と言うのは、近江の商人の言葉「三方よし」に言う「世間よし、相手よし、自分よし」、この精神に尽きるのではないかと思います。化学物質については、例えば十万分の一の発ガンリスクは許容しようではないかとか、十分に調査・検討されてコンセンサスが得られてきています。また、化学的事象に対する専門家の判断については、多数決ではなく、マイノリティの意見や議論が見える透明性の確保をお願いしたいと思います。

植田鷲谷さんに、マルチステークホルダーについて、少しご説明いただきたいと思います。

鷲谷鷲谷専門家が圧倒的に少ない生物多様性分野で、欧米のようにナチュラリストもあまりいない日本にあって、リスクや問題に気がつくのは専門家になりがちです。例えば、外来生物の問題に気がつくのは専門家ですが、その問題を世界に伝えて、そこから合意形成を経て対策に取りかかっても手遅れに近いということが起こります。そこで、データを集める段階からさまざまな立場の方々に参加していただく、生物多様性モニタリングという手法を研究しています。ラムサール条約に登録されている某湖では、漁業者、農業者、地元の自治体、市民型NGOや、他の分野の研究者と一緒に共同参加型モニタリングを行うプログラムを試行しています。一緒に調査して、議論すると合意が得やすい。これで解決するわけではないのですが、問題を共有するプロセスとして、調査や研究にマルチステークホルダーで取り組むということが、私たちの分野では特に重要なのではないかと思っています。化学物質のリスク評価についても、ある産業の研究者だけでなくマルチステークホルダーが参加して研究や試験を行うことによって、透明性が高まり情報が共有されるのではないかと思います。

関私は、日本の産業界代表という立場でISO26000の策定に5年間関わり、政府、産業界、消費者、NGOなど世界中から400人ほど集まった作業部会のなかで、予防原則について、行動を規制するものというより、どう解釈してどう使えば役に立つかというような角度から議論をしました。このように世界中のさまざまなステークホルダーと議論してきたプロセスを振り返ってみると、最終的に参加した全ステークホルダーが合意したというところに大きな意味があったと思います。特に予防原則のような複雑な問題、多くの関係者に関わる問題、単純に結論を出しにくい問題では、マルチステークホルダーの手法は有効ではないかと思います。

小林関さんへの質問ですが、ISO26000のレジュメに、第3者認証ではない、自己適合宣言ではない、とありますが、どう実行したらいいのでしょうか?

ISO26000は、ガイダンスであり認証規格ではないということで、要求事項がない。言わば、アドバイスや推奨事項です。400項目ほどあるなかで、ステークホルダーと対話しながら優先順位を決めて実践していくというのがそのスタイルです。従って、認証のお墨付きをもらうものでありません。最終的には、ステークホルダーが評価をすることになると思います。

植田最後にこの予防原則を議論してきまして、より深まった論点があったかと思いますが、一言ずつ、ご意見やご感想をお願いします。

予防原則は発展途上の概念だと思いますので、このシンポジウムをひとつのきっかけにもっともっと活発な議論をしていく必要があり、企業としてはそのなかできちっと意見を言っていくということが重要だと思います。企業はステークホルダーからの意見を聞くだけでなく、反対にステークホルダーに対して注文や要求を出していくというスタンスも必要だと思います。

高村高村コメンテーターの方々のお話をお聞きして、科学者、専門家の役割が大きく、議論をどう深めていくかが大事だと思いました。それと同時に、ステークホルダーが参加した形で意思決定をする、政策をつくるといったときに、ステークホルダー間で、科学や専門的知識に基づいて、どのようにコミュニケーションしていくかというところでは、科学者、研究者としても社会的な様々な経験を蓄積していく必要があるように思います。不確かさを伴ったリスクについて、どうやって伝えていくか、そこを元に議論していくのはかなり難しい作業です。専門家、企業、行政の間のパイロット的な取り組みが必要だと感じました。

鷲谷先ほど、奥村さんから、「多数決ではない専門家の判断を」という、お話がありましたが、決して多数決ではありません。設定をする事実として用いる要件や、論理の展開の仕方、結論の導き方について、相互チェックのシステムがあります。もちろん、間違う可能性を認めた上でのことです。科学は、歴史の中で間違いを侵しつつ、方法を磨いてきました。マルチステークホルダーでプロセスを行うということは、全く違う世界でどういう仕事をしているかということを理解しつつ、みんなにとってメリットのあることを決めていくという上で、とても重要だと思います。

大塚大塚今日の予防原則の話では、科学的不確実性が残っているときに、尚どうするかという話がメインですので、科学的に確実なのに対策ができないかもしれないという未然防止原則とは異なります。外来種は、因果関係がわかっている未然防止の問題が少なくないですが、生物多様性に関しては、このように、未然防止さえなされていないという現実があります。このように、分野別で考えていかなくてはいけない問題があると思います。予防原則に関しては批判も反論も多いことでありますので、それにどう答えていくかということも重要だと思います。

奥村予防原則の例として、フロンガスの問題が出ていましたが、私はこれは未然防止だと思います。科学的知見によってフロンガスがオゾンを破壊するという事実は厳然として発見されたわけです。一方、温暖化のほうは、人間は生きているだけでも二酸化炭素を出していまし、元々、太古の昔から大量に地球上あったものですから、そのわずかな増減の影響について私自身はよくわからないという立場です。

桝本桝本科学的に確かになるほど、規制や基準になっていきますので、不確かなことへの取り組みを産業・企業がどう解決するのかということです。責任をとる主体として、産業・企業を考えていただきたい。中途半端な予防原則というものが行われますと、大変な議論が必要になると思います。気候変動問題は、大きなライフスタイルのパラダイムシフトを必要としますので、時間がかかります。しかし、科学的に不確かであろうと、世界中の産業界は気候変動問題に取り組んでいるという実態をご覧いただきたいと思います。

小林小林奥村さんから、フロンは、因果関係がはっきりしているので、未然防止対策は当然だというお話しがありました。当時はなかなか産業界を説得できずに苦労した覚えがありますので、奥村さんのような方が当時いらっしゃればと、感じ入った次第です。温暖化問題については、未然防止なのか科学的に不確かな問題なのか、いろいろ議論はあるかと思います。いずれにしても、いままで以上に熟慮が必要なのだと思います。予防原則が、環境リスク管理に即効力があるのかはわかりませんが、ISO26000のような新しいタイプの社会的責任ガイダンスのお話もありまたし、施策のヒントになる可能性も感じました。今後益々、環境政策の国際競争力の強化が大事だと感じました。

植田植田今日の予防原則の議論では、科学と社会、科学と政策という大きな話がありました。今後環境問題に対処する中で避けられない様々な問題のなかに、予防原則もあります。どう解釈して、どう使っていけば社会的に有用な原則になるのか、それをマルチステークホルダーで議論していくということだと思います。問われているのは、不確かなことを明確にしていく専門家でもありますが、決めるのは専門家ではなく社会です。予防原則は、そうした決め方を含めた新しい課題を明示した原則ではないかと思います。

(終わり)

構成・文:温野まき/写真:黒須一彦(エコロジーオンライン

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